2014年5月24日

背筋ぞくぞく・・・? ~鎌倉珍道中その2~

さて、朝比奈切り通しを通り抜けて(鎌倉珍道中その1)、再度鎌倉市内に向けて戻るべくバスに乗り込んだ岡田さんてらさんさとみんさん&私めのディープな鎌倉めぐりご一行ですが、次はどこに行きましょうかという声が・・・?

私は今回の鎌倉めぐりで、切り通しのほかに一ヶ所だけ行きたいところをリクエストしていたんですが、その他には特段こだわりはありませ~ん☆

じゃあ、ということで、てらさん岡田さんであらかじめ相談しておいたスポットを時間に応じてたどって、最終目的地・岡田さんリクエストの和賀江島まで、そこからずっと散策することに。


で、途中の杉本観音というバス停で降りて歩き出しました~が、お腹すいた!
考えてみたら、朝比奈切り通しを通り抜けた時点でもうお昼だったんですよね☆

そんなお腹空いた目で見ていたら、歴史的な景観とか地形とかよりも、ついつい食事のできそうなお店ばかり目に入ってしまふ・・・

そんな中、バスの通る表通りから小学校のある閑静な住宅地へと入ってしばらくのところで目に入ってきたのが、瀟洒ないい感じのカフェレストラン。




お店の前においてあるメニューボードを見ると、ランチが鎌倉にしてはリーズナブルなお値段♪
さっそく飛び込むことに☆





気さくなおじさんマスターが切り盛りしているこのレストランは、鎌倉野菜をふんだんに使ったヘルシーそうなメニュー揃いです。

私たちもそろって「季節の鎌倉野菜どんぶりランチ」1000円ナリをいただくことに。
ソテーした鎌倉野菜がごはんの上に彩りよく乗っていて、これにお味噌汁がついています。

さとみんさんと私はしっかり食べた感でしたが、男性陣にはちょっと量が少なめだったかな・・・?
マスターは野菜のことを訊くと、実物を持ってきてくれたりして(写真はズッキーニらしい)、結構居心地よくゆっくりしちゃいました。

(CAFE Kaeru)
http://r.gnavi.co.jp/jghnbzjx0000/




さてさて、まだそんなに回っていないのにゆっくりしてもいられない・・・
というわけで、お店を出てさくさくと護良親王のお墓へ。。。

後醍醐天皇の皇子の護良親王は鎌倉幕府滅亡後の建武の新政で征夷大将軍に任じられたのですが、足利尊氏や父・後醍醐天皇との不和により、皇位簒奪を企てたとして捕らえられ、鎌倉に送られて二階堂が谷の東光寺に幽閉されます。

そして、翌年の北条時行の中先代の乱で、関東各地で足利軍が北条軍に敗れると、時行に奉じられることを警戒した足利尊氏の弟直義により殺害されてしまうのです。。。


で、そのお墓なんですが・・・この奥の階段×4倍くらいの階段を登っていかないとたどり着けない☆
どうする?行ってみる?と訊かれて、迷わず、「パス!」

この場所で手を合わせて・・・次の訪問先は護良親王が幽閉されていた東光寺跡に、明治になって護良親王の霊を弔うために建立された鎌倉宮です。



さて、その鎌倉宮に向かって歩いていると、前方になにやら看板と数段の階段を登った上に広がる原っぱ様の高台が・・・

看板を見ると、源頼朝が源義経や藤原泰衡をはじめとする奥州合戦の戦没者の慰霊のために、奥州平泉の二階大堂大長寿院を模してつくったという永福寺(ようふくじ)の跡で、発掘調査のあと史跡公園としての整備を進めているところだとのこと。

ちょっとのぞいてみましょうか・・・とみんなで階段を上りかけ・・・

・・・え?
・・・・・えっ?

・・・・・・・ええええっ???


何の変哲もない階段で足を踏み外し、踏みこたえようとしてまた足を踏み外し・・・
ついにこらえ切れなくなって、空とんで転げてしまった~!



左手に持ったスマホをかばいつつ右手で支えようとしながら転げた結果、右手の手のひらの皮が直径2cmほどべろんとむけて血がだらだら、その他に右ひじと左ひざに擦過傷。

幸いなことに、さとみんさんが絆創膏とミネラルウォーターを持っていたので、傷口をじゃぶじゃぶよーく洗って絆創膏を貼って、とりあえず応急手当できました・・・

今回は鎌倉のタウンウォーキングと侮って救急キットを持ってこなかったので、さとみんさん感謝!です(^^;)

しかし・・・これは護良親王のお墓にちゃんとお参りしなかったからかな・・・?




永福寺跡の復元状況を横目にみながら、今度こそ(?)鎌倉宮へ。

この鎌倉宮の本殿の裏手には護良親王が幽閉されていた土牢なる土窟があるそうなのですが、有料ゾーンなので、時間もないことだし今回はパスすることにして・・・

先ほど痛い目にあったばかりなので、今度はしっかりとお参りです。

拝殿の脇に村上社なる小さなお社があって、その前に「撫で身代わり様」という木像が置かれています。

この「撫で身代わり様」は、吉野の戦いで護良親王の身代わりとなって戦死した村上義光の姿を、境内の樹齢103年の欅の大木で彫り上げたもので、気になる場所を撫でるとご利益があるのだとか・・・

村上社にもお参りしたあと、私も心をこめて怪我したところを撫でなで。
心なしか、痛みが少し和らいだ気が・・・?



次には、拝殿の前に置かれている「厄割り石」で厄祓い。

かわらけに息を吹きかけて体の中の悪いものをうつしてから、そのかわらけを厄割り石にたたきつけて割ると、厄が祓われるということです。

かわらけは1枚100円。

ところが岡田さんは小銭が500円玉しかなかったので、それでかわらけを5枚購入し、他の3人は岡田さんに100円ずつ渡し1枚ずつもらって、それで厄払い。

ところが・・・私の投げたかわらけのみ、厄割り石と全然別方向に飛んでいって、厄が祓えなかった~!(ToT)


幸い、岡田さんの手元に5枚のうち2枚残ってたので、もう100円渡してプラス1枚もらい、なんとか厄祓い完了。




でも、1発で気持ちよく割れなかった何ともすっきりしない気分を抱えつつ、お参りを終えて参道「お宮どおり」へ出て、清泉小学校の角にある大蔵幕府跡の碑の前で、小学生の作った鎌倉の歴史や史跡を紹介する手作りパンフなどを見てから、源頼朝公のお墓へ。



「源頼朝の墓」は、頼朝自身が政務を執っていた大蔵幕府をみおろす大倉山の中腹にあります。

「大蔵幕府」というのも、もともと鎌倉時代に武家の政権を「幕府」と呼んでいたわけではなくて、そもそも将軍の陣所を指す概念の「幕府」を、頼朝公の居館であり侍所が置かれた「大蔵御所」にあてはめたもののようです。

その居館を見下ろしている頼朝公のお墓は、頼朝の持仏堂として建てられた「法華堂」の跡にあります。

現在の多層塔(供養塔)は、安永8年(1779年)に薩摩藩の島津重豪が建てたもので、毎年4月13日には島津家ご当主も出席して「頼朝公墓前祭」が執り行われてるのだそうです。

だから、お墓についている紋が頼朝公の家紋といわれている「笹竜胆」だけじゃなくて、島津家の「丸に十字」があるのか~!

・・・しかし、なぜ島津?


首をひねりひねり頼朝公のお墓を後にして、次はいよいよ今回の私のリクエスト「東勝寺跡 北条高時腹切りやぐら」です♪

なぜ?と言われると特に理由はないんですが、なんとなく自分の中にインパクトがあったというか。。。

これが東勝寺の跡です。



東勝寺は鎌倉幕府三代執権の北条泰時が創建した寺院で、北条得宗家の氏寺でしたが、元弘3年(1333年)新田義貞の鎌倉攻めの際に第14代執権の北条高時が一族郎党870名あまりと立てこもって、火をかけて自害し最後をとげた、鎌倉幕府滅亡の地でもあります。

平成8~9年に行われた発掘調査では、この場所から鎌倉幕府滅亡時に焼失したと考えられる建物の跡とそれを覆う十数mの炭の層が発見されたということです。

そしてこの裏山、写真の山道の左側に入ったところに、「腹切りやぐら」はあります。




腹切りやぐらは東勝寺で自刃した北条高時ほか一族郎党を供養するためのやぐらだということです。

まずは神妙にお参りをして、それから周囲をよくよく見ると、奥に立てかけてある卒塔婆の中に「高倉健」の名前を発見!

こんなところになぜ?と、その場でみんなでweb検索して調べてみると・・・

幕府滅亡時に自刃した北条一族のひとり「苅田式部太夫篤時」なる人が俳優の高倉健さんのご先祖なのだそうです。

だから、ご先祖の供養ということで卒塔婆が供えられてるのだそう。

う~ん、思いもかけぬつながりって、あるもんなんですねぇ☆


さて、バスを降りてからここまで、よくよく考えると、どういうわけかお墓だったり供養の場ばかりのような・・・痛い目にもあってるし厄払いも一発ではできないし、どうもちょっぴり背筋がぞくぞく。

これも歴史ある古都ならではのディープさなのでしょうか?
さらに最終地・和賀江島のある海に向かって、珍道中は続きます☆