2017年5月19日

上総国分尼寺は奈良な気分♪

所用で千葉の五井というところに行くことになりました。

訪問先の住所が「国分寺台」だったので、あれ?と思いながら行き方を調べるために地図をググってみたら、市原市役所をはさんで「上総国分寺」と「上総国分尼寺跡」という文字。

ならば「国分寺」に帰りに寄ってみよ♪と思っていたら、なぜか訪問先の方が「国分尼寺」の方を強くオススメしてくるので、駅と反対方向なのですが、「国分尼寺跡」に行ってみることにしました。


所用が終わって、言われたとおりに新興住宅街の中をのこのこ歩いていくと、住宅の間のすごくわかりづらい細い道を入ったところに突然立派な展示館が現れました!

しかも無料☆


さっそく入って見ると、部屋の奥の目立つところに、在りし日の国分尼寺が復元されたジオラマがばーん!

しかも平日の夕方ということもあってか、ちょうど観光バスの団体さんが帰って手の空いた展示館の職員の方?が付きっ切りで説明をしてくださるという贅沢さ。

そしてジオラマでの国分尼寺の説明が一段落ついたところで、サーッとジオラマの向こう側の壁が開き・・・


なんと、ジオラマの国分尼寺の場所そのものの風景が、実際に再現された建物とともに現れた!!

というのも、この展示館は史跡上総国分尼寺跡の一郭、遠くに遺構を見渡せる位置にあるからなのです・・・とはいっても、びっくりしました~☆


養老川北岸の台地上に所在するこの「上総国分尼寺跡」は、「上総国分寺跡」とともに国の史跡に指定されています。

国分尼寺では、なんと第2次大戦後間もない昭和23年(1948年)から発掘調査が行われていて、主要な伽藍の配置や規模、構造等、全国の国分尼寺でも先駆けてその全貌が解明され、また建物跡の完全な復元が可能とされたことから、平成5年(1993年)にはかつての中門が奈良時代の工法を再現する形で復元されました。

現在ではこの中門と、あわせて建設された史跡の案内施設であるこの「史跡上総国分尼寺跡展示館」、そして平成9年(1997年)に復元・公開された金堂院の一郭(回廊、金堂基壇)が一般公開されています。


さて、展示施設でビデオを見て、職員の方?にもみっちりと国分寺・国分尼寺の歴史や発掘調査・復元事業について教えていただいて、予習もばっちり?!なので・・・いざ実際に復元建物へ!

これは平成5年に復元・公開されたという中門を回廊の内側から見たところ。
中門はご本尊をお祭りする金堂院の南表面の門なので、特別な行事のとき以外、普段は閉じられていたのだそうです。


案内板によれば、中門は法隆寺東大門や東大寺転害門、唐招提寺金堂など奈良時代の建築物を参考にした控柱8本・本柱4本の八脚門で、礎石は蛇紋岩の自然石、木材は木曽ヒノキ、ただし柱から上の重みがかかる大斗には堅いケヤキ、軒先の垂木等には水に強いヒバを使用し、遺構の上に原寸大で復元したとのこと。

木部の表面は手斧、ヤリガンナ仕上げ、塗装にはベンガラ(赤)や緑青(緑)等伝統的な顔料を用い、平成25年度の改修で頭貫以下と破風に耐久性のある木材保護塗料を使用したそうです。


また、中門の左右に伸びる回廊は、古代の回廊唯一の現存例である法隆寺回廊や建築部材が出土した山田寺回廊を参考に再現されており、土の崩れを防ぐための瓦を積み重ねた幅20尺(6m)の基壇の上に立っています。

その回廊の床には甎(せん)という、屋根の瓦と同じ材料で作られたタイル様の敷き瓦。

そして、屋根に葺かれた瓦も、聖武天皇の宮殿の再整備に使われた瓦を手本に上総国分寺の創建時に導入したという、国分尼寺跡から出土した蓮華文軒丸瓦や唐草文軒平瓦などを再現していて、平瓦や丸瓦もあわせて屋根全体で44,765枚使われているそうです。


建造物復元のためにそれだけの数の瓦を焼くのも大変なことですが、その瓦も不良品ができてしまったり、破損してしまったりということがあったようです。

でも「もったいないから、ちゃんと使ってるんですよ!」と展示館の職員?さん。
ちゃんと中門から金堂に向かってまっすぐ伸びる参道に、割れた瓦が敷き詰められておりました☆


この回廊で囲まれた内庭部分の中央には、奈良時代の現存例である東大寺灯篭を参考に、青銅の表面に漆を塗って金箔を貼って作られた高さ2.7mの灯篭が再現されています。


灯篭の正面にあったという金堂については、建物は復元されておらず、回廊と同じく土留めの瓦積みがされ甎(せん)が敷かれた基壇とその上の須弥壇、柱位置に並んだ礎石のみです。


甎(せん)は布敷きといって、よく見ると一列ごとに目地(継ぎ目)が食い違うように合わせられていて、とても綺麗。きっと古には尼僧たちがこんな床の上を行きかいながら修行していたんだろうなぁ・・・

礎石の蛇紋岩は、創建時には房総地域産のものが使われていたそうですが、現在は切り出されていないので秩父産のものを使用したそうです。


回廊の外側から金堂の基壇をみたところ。やっぱり金堂の建物がほしいなぁ・・・とりあえずは心の中で妄想復元(^^;)

それにしても、これだけ力を入れて国分尼寺を建築様式も工法も含めて、創建当時の奈良時代に近い形で再現しているので、特に回廊を歩いていると奈良(たとえば春日大社とか)にいるような気分になります!

自分はこれまでまったく上総国分寺・国分尼寺のことを知りませんでした。これだけ整備されてるのに、関東でもほとんど知られてないのがもったいない~(><)
また、今度はこの近辺の歴史遺産も含めて、じっくり関東の中の奈良を感じに来たい・・・そんな史跡でした♪

※上総国分尼寺に関する情報はコチラ(市原市役所HP)

にほんブログ村 旅行ブログ たまたま行った旅へ
にほんブログ村 ← お気に召したなら、クリックよろしくです!

2017年5月6日

称名寺@金沢文庫

3月に引っ越しを手伝ったんですが、新居が落ち着いたからということで八景島近くまで訪問することに♪

その引っ越しのときには、図らずも鎌倉古道を見つけたんですが(その時の記事はコチラ)、今回もちょっとだけ鎌倉幕府に関連して・・・せっかく八景島近くまで埼玉から遠征してきたので、ほど近くにある執権北条氏にゆかりの称名寺に行ってみることにしました。




称名寺は鎌倉の東の境界にあたる六浦にあります。

鎌倉時代の六浦は現在の海岸線よりもかなり内陸に海が入り込んでおり、鎌倉中心部とは六浦道(朝比奈切通・地図のオレンジ線)で連絡していて地の利も良かったので、鎌倉幕府の諸物資の揚陸地として鎌倉幕府や鎌倉の消費を支える外港として栄えていたようです。




称名寺はこの六浦を所領としていた鎌倉執権北条氏の一族・金沢北条氏の祖、北条実時(鎌倉幕府2代執権北条義時の5男実泰の子)により、海からほど近かったであろう高台に開基されました。

称名寺の南側にある薬王寺の墓地あたりから見ると、すとーんと土地が下がっていることがよくわかります。



称名寺周辺を地形図で見てみても、古い時代には海岸線であっただろう段差がよく見て取れます(地図のオレンジ線部分)し、実際に歩くと各所に海蝕崖と思われる崖があちこちに見られます。





称名寺の赤門の脇がこんもりと盛り上がっていて、土塁みたいだな~☆とちょっと気になっていたら、どうもそのあたりに貝塚があるらしい!(地図の赤丸部分)


貝塚は縄文時代後期のものらしく、縄文式土器やイルカの骨なども多く確認されているとのことです。

そして思ったよりこじんまりとした明和8年(1771年)建立の称名寺の赤門。


鎌倉時代には金沢北条氏の菩提寺として発展したお寺だけあって、門にはしっかり北条三つ鱗門!

赤門をくぐると、奥に向かってまっすぐ伸びる参道。緑が涼しげ♪


参道脇には、甘味処や喫茶店などとともに、横浜市指定有形文化財の称名寺塔頭光明院表門が建ってます。

この表門は小規模な四脚門ですが、寛文5年(1665年)に作られた切妻造茅葺の渋いたたずまいです。


参道をそのまま進むと、やがて文政元年(1818年)復興の仁王門が見えてきます。

門のそばにいらしたボランティアガイドさんによると、金沢北条氏初代の実時の時に六浦荘金沢の居館内に持仏堂として建てられ、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備されたものの、鎌倉幕府滅亡とともに金沢北条氏も滅びたため、お寺も荒廃してしまい、江戸時代になってから大幅な復興が行われて、この仁王門もその際に再建されたようです。


この仁王門の脇の柱には象の顔の飾りがついているんですが、ボランティアガイドさんによれば、真ん中の飾りだけは象ではなくて獏なんだそう。それは「耳の部分で見分ける」とか。

たしかに角の柱の象さんにはついている耳が、真ん中のにはついてない・・・!
そんなこと、言われなくちゃ(言われても)わかりませんよね~☆
ちなみに、その示すところの意味については、ガイドさんも「わからない」とのことでした(^o^;)


仁王門を抜けると、広大な庭園苑池と池にかかる反橋が目に飛び込んできます。
そのたたずまいから古くからある橋なのかと思ったら、平成19年(2007年)に架け換えられた、つまり10年しかたっていないものだとか。

なんでもこの庭園は、発掘調査の成果と重要文化財「称名寺絵図」に基づいて、10年の年月をかけて鎌倉時代の造営当初の姿に復原した浄土式庭園(浄土曼荼羅に基づいて配置された庭園)なのだそうです。


苑池を挟んで彼岸と此岸と位置づけて、橋を渡って浄土へ渡る配置になっているのだそうです。浄土である苑池の向こう側には金堂、鐘楼と釈迦堂が見えます。

文久2年(1862年)建立の釈迦堂の屋根にも北条三つ鱗紋。
鐘楼の梵鐘は、「金沢八景」の1つ「称名の晩鐘」として歌川広重の浮世絵にも描かれた名鐘。「文永己巳仲冬七日」の旧銘と「正安辛丑仲和九日」の改鋳銘がありますが、初代実時が文永6年(1269年)に鋳造させた鐘が地震によって壊れたため、正安3年(1301年)に2代顕時によって改鋳されたものなのだそうです。


そして天和元年(1681年)建立の金堂。ご本尊は重要文化財の木造弥勒菩薩立像です。
よく見ると、屋根の軒丸瓦の模様が全部三つ鱗!


金堂にお参りした後、庫院にて御朱印をいただきました♪
ご本尊を示す「弥勒」の下の文字がどうにも読めない・・・(^^;)

称名寺は金沢北条氏の菩提寺ということで、庫院左手方向の山陰に2代顕時・3代貞顕の墓所がありました。


2代顕時は初代実時の子で、鎌倉幕府の重職であった引付集や評定衆などを歴任しています。

また、3代貞顕は顕時の子で、六波羅探題を勤めたのち第15代執権となり、新田義貞の鎌倉攻めの際に北条高時および北条氏一族とともに鎌倉東勝寺で滅んでいます。

墓所の西側の山肌に小さなトンネルが掘られています。
なんだろう?と行ってみると、くぐった先にあるのは神奈川県立金沢文庫。称名寺に伝来した工芸品や古文書などを収蔵する博物館です。


この県立金沢文庫の建つあたりは「文庫ヶ谷」と呼ばれていて、もとは金沢北条氏3代によって収集された和漢の貴重書を収めた書庫である中世の金沢文庫が建っていたところと推定されています。

中世の金沢文庫は鎌倉幕府滅亡によって称名寺が管理を引き継ぐこととなりましたが、蔵書の大半は室町幕府、上杉氏、小田原北条氏、豊臣秀次、徳川家康、加賀前田家など、歴代の権力者によって外に持ち出されてしまったとのことです。


しかし、現代のトンネルのそばに「称名寺絵図」にも一致する「中世の隋道」が残っていて、発掘調査ではこの隧道に続く中世の道路も検出されているそうです。
ただし、入れないように厳重に柵で封鎖されてますが・・・☆


本来の称名寺の寺域は、初代実時の墓所が日向山の方にあるなど、背後の丘陵まで含めた広大なもの(おそらく写真内の図の「史跡指定範囲」)だったと思われ、とても回りきれませんでしたが、赤門から仁王門、庭園の周囲などを回っただけでも、思いもよらず中世が復元されていて、鎌倉の外側なのに鎌倉幕府の跡が色濃く残っていたことにびっくりした散策でありました。


にほんブログ村 旅行ブログ 関東お出かけスポットへ
にほんブログ村 ← お気に召したなら、クリックよろしくです!