2014年7月26日

織田信長公ゆかりの津島天王祭

津島天王祭なるお祭りを、私は今まで全く知らなかったんですが・・・

今年2月の「バレンタイン豪雪」の時に、たまたま名古屋や岐阜から城めぐりに来ていた城ともフォロワーさんたちからこのお祭り見物に誘われて、織田信長公もご覧になったという由緒あるこのお祭りの存在を、はじめて(!)知ったのでした(^^;)

なんでも厳島神社の「管弦祭」や住吉大社の「住吉祭」と並ぶ日本三大川祭りのひとつで、国指定重要無形民俗文化財。

「津島神社の祭礼として500年の伝統を誇り、全国の数ある夏祭りの中でも最も壮麗なものといわれている」(津島市HP)のだそうです。

その上、城ともさんたちは天王祭クライマックスの宵祭の桟敷席まで用意してくれた・・・!

現地の観光協会まで行かなくては桟敷席券の購入はできない上、人気が高くて販売開始とともに即完売で、なかなかとれない桟敷席なんです。

いかに関東からは遠いとはいっても、これは行かずにおれましょうか!

それで、たまたま別途お誘いを受けながらも延び延びになっていた「現地ボランティアガイドの城ともさんとの桶狭間合戦関連史跡めぐり」と一緒に予定を組んで、思い切って出かけることにいたしました♪


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当日。

朝から炎天下の桶狭間をいろいろと案内していただき、あちこち歩き回ってほどよくビール向きにのどが渇いたところで、夕方津島駅に集合。

駅から西にまっすぐ500mも行くと、祭礼を執り行う津島神社に行き当たります。
駅の改札や構内も、駅からの道も、さすがにお祭りに向かう大勢の人々でごった返しています。

道にはお祭りをモチーフにしたマンホール♪



もちろん、まずは津島神社にお参り・・・と思ったら。

津島神社手前の交差点で、なぜか人々は左(南)方向の天王川公園の方に曲がってしまって、津島神社はガラガラ。

そっか、お祭りのメイン会場は神社の境内ではないのですね。で、みんなそちらに行ってしまう・・・と。でも、神様にご挨拶(お参り)しなくていいのかな~?

津島神社の境内は、お祭りモードで華やかに提灯など飾られています。
神橋も清められて通行禁止。

ちなみに、神橋の向こうに見えるのは、豊臣秀吉が天正19年(1591年)に寄進した重要文化財の楼門です♪





津島神社は、現在は建速須佐之男命が主祭神ですが、中世~近世を通じて「津島牛頭天王社」(津島天王社)と称し、牛頭天王を祭神としていました。

明治の神仏分離の際に社名から牛頭天王の名をはずしたわけですが、現在でも全国に約3000ある津島神社・天王社の総本社なのだそうです。

そして牛頭天王は厄除けの神様だからか、これまた慶長10年(1605年)清洲城主松平氏妻女寄進(重要文化財)の本殿の前には茅の輪。

夏越の祓には少し時期がずれてるけど厄除けしましょうか・・・ということで、女性陣で茅の輪くぐり。
4人で一列になって左回り~右回り~左回りと八の字に3回ぐるぐる回ってる姿は・・・知らない人が見たら何かと思うだろうなぁ(笑)

もちろん、津島神社の御朱印もいただいて。。。




本殿の裏手には・・・あれ?お祭りの巻藁舟が展示されてる・・・?

いえいえ、これでも模型なのだそうです。これ自体ちょっとしたお祭り山車くらいの大きさがあって、すごく精巧できらびやかなので、てっきり本物かと思ってしまったのですが、本物はこれより遙かに大きいということなのでちょっとびっくり☆


さて、津島神社へのお参りを終えて、いよいよお祭りの会場へと向かいます。

空もいい具合に日が暮れてきて、会場の天王川公園の池にも太鼓舟などが繰り出しているのが見えてきました。




そして、いよいよ桟敷席です!
・・・もう、池に面して遮るモノなし、かぶりつきの特等席です!



とっぷり日も暮れて、始まった花火も川風に吹かれながらの~んびり見られるなんて、それだけでもすごい贅沢。

その上、誘ってくれた城ともさんが敷物や飲み物、おつまみなど用意してくれて、ゆったり座ってみんなでカンパイしながら見物できるなんて、もう最高~♪

これが普通席(?)だったら、カメラポジション探すだけでも一苦労、飲み食いどころか、ただ見るだけでも汗だくになってしまいそうなのに。。。



夜も更けて、花火も充分楽しんだ頃、いよいよクライマックスです。

桟敷席後方の木の間隠れに明かりが動いてるなぁ~と思っていたら・・・?




二艘の舟をくっつけて真ん中に柱を立てて、400個あまりの提灯を傘のような半円形にまとった巻藁舟が、夜空の向こうにあがる花火をバックに、津島笛を奏でながら一艘また一艘と水面を進んできます!




全部で五艘。水面に映る姿も含めて、もう、うっとり!でございます☆





津島神社のように牛頭天王を祀る神社では、夏の酷暑や疫病を無事にやり過ごすことを祈願するために、天王祭・祇園祭などの祭礼が行われるようになったそうです。

京都の八坂神社の祇園祭では山鉾巡行が行われて、山車や屋台を華麗に飾って華美を競い合いますが、津島天王祭では山鉾の代わりに川に舟を浮かべて行うわけです。

それはかつて津島が伊勢と尾張を舟でつなぐ湊町だったからだということです。現在では(そして関東の人間には)まったく想像もつきませんが・・・(^^;)





天王祭の舞台は、現在は天王川公園の丸池となっていますが、戦国時代の津島は及川(旧木曽川)と墨俣川(長良川)の合流点に位置する交通の要衝で、「尾張の金銀はすべて津島を経由する」とまで言われた尾張最大の商業都市でした。

津島からほど近い勝幡城を拠点とする織田弾正忠家は、津島を支配することでその経済力を背景に勢力を伸ばし、また津島神社は織田家の庇護下にあったようで、その神紋は織田家と同じ木瓜紋です。

というより、どうも牛頭天王の神紋が木瓜紋で、そのため津島神社を尊崇していた織田家も木瓜を家紋とした、という説も。

・・・そう考えると、鎌倉最古の厄除け神社である八雲神社の神紋が「織田木瓜」と同じだった謎も合点がいくなぁ。

天王社だしね。。。(←すごい話題の飛躍 笑)


と、そうこうしているうちにも、舟の幔幕についている津島神社の神紋「織田木瓜」がくっきりと見えるくらいすぐ近くを、巻藁舟が次々と通って行きます。

もう、大興奮です!





まぁ、家紋についてはともかくとして、織田家と津島神社とのつながりは深く、津島天王祭の古記録「大祭筏場車記録」の弘治4年(1558年)の条には、織田信長が祭りを見物したことについて「かずさ殿、橋の上にて御座候て、御見物なされ候、女房達橋坊主のうらに桟敷を打ち、それに御座候・・・」と記されているのだそうです。

・・・というお祭りのうんちくはさておき、五艘の巻藁舟が御旅所まで行ってまた元の方へ戻るまでのゆったりとした幽玄の時間を、そして織田信長も楽しんだかもしれない景色を、何に邪魔されることなくゆったりと心から楽しむことができたのでした。

今回、誘ってくれて、また、いろいろと準備して迎えてくれた城ともさんにあらためて、心から感謝します。

本当にどうもありがとうございました!




そして・・・できれば、津島天王祭で歓待してくれた城ともさんたちを、今度は同じように関東のお祭りに誘えたらいいなぁ~と思ったりもして。

でも、匹敵する(戦国武将とかにもからんでたりとか)ような、城ともさんたちが喜んでくれそうなお祭りって、何かあるかなぁ・・・?



2014年7月20日

思い立って富士宮詣で




ある日、いつものごとくつらつらとTwitterのタイムラインを眺めていて、ひょいっと目に飛び込んだのがフォロワーのみゆさんの情報ツイート。

「浅間大社に祈願した『戦国武将』展」

この「浅間大社」というのは、静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間大社のことです。

全国に1300以上ある浅間神社の総本宮で、第11代垂仁天皇の時代に富士山の噴火を沈めるために木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと・別称:浅間大神)をお祀りしたのが起源だと言われています。

朝廷から篤い尊崇を受けて駿河国一之宮として正一位を授与されると共ニ、源頼朝、北条義時、武田信玄・勝頼親子、徳川家康といった武将たちからも篤く崇敬を寄せられていたそうです。

で、今回の「戦国武将展」では「富士山世界遺産登録1周年記念事業」ということで、武田勝頼が奉納した具足や琴、伝豊臣秀吉の手形その他奉納物が展示されるとのこと。

特に武田信玄の願文はよくある祐筆のものではなく、どうやら自筆らしい☆

どうしよう、行ってみようかどうしようか・・・?

しかし・・・展示会の場所、富士宮信用金庫神田支店っていったいどこ?富士宮だよね。。。
そして開催期間が7月10日~21日・・・たった10日間しかない~!

じたばたじたばた・・・(><;)


と悩んでいるうちに、次々とフォロワーさんたちが展示会に行っているのがTwitterで流れてきて、その中には北条氏康・氏政の御朱印状があったという情報も、図録は全くないという情報も・・・(TT)

これはやっぱりムリしてでも現地に行くしかないじゃないですか~!
よくよく考えてみたら、6月に圏央道と東名道がつながって静岡方面めちゃ行きやすくなったはずだし~☆

というわけで、展示会最終日の前日に、午前中予定されていた集落の草取り作務をさくっとやっつけ、軽くシャワってからお昼ご飯も食べずに愛車の「濃いオッサン号」でGO!


そして・・・ちょうど昼下がりの空いている時間帯にガンガン高速道をとばして3時間。
富士宮に着いちゃったですよ~☆



お腹は適度に空いていたけど、そこはまず目的を果たさなくちゃ。。。

なので、浅間大社の駐車場に愛車を停めて、まずはほど近くにあって同時開催の「富士山世界遺産特別展」をやってるという「長屋門歴史の館」へ。

この「館」自体は、江戸時代の陣屋の長屋門ではあるらしいけど、特段浅間大社と関わりがあるということでもないらしい。。。

「特別展」自体も、狭い部屋に「絹本着色富士曼荼羅図」の掛け軸が3~4本で、ワタシ的にはあまり興味を持てず・・・しかもすべて複製だし☆

しかし~、常設のパネル展示のほうはかなり勉強になりました!




まずは富士宮の地形や武将たちと富士宮・浅間大社との関係、文化財の配置、etc.etc....



孝昭天皇後裔の豪族・和邇部氏が始祖と伝わり代々浅間大社の富士大宮司を努める富士氏は、戦国期には大宮城を拠点とする国人領主であったことから今川氏との関係が深く、浅間大社においても今川氏の歴代当主による土地の寄進や安堵が行われていたようです。

今川義元が家督を継いだ天文5年(1536年)から天文14年(1545年)にかけて、甲駿同盟を強化した今川氏と、それを駿相同盟の破綻とみた北条氏綱との間でおこった「河東一乱」において、北条氏が占拠した河東地域(駿河の富士川以東)にあって、富士氏は基本的に今川氏に属していました。

また、永禄3年(1560年)桶狭間合戦での義元戦死後も富士氏は今川陣営に残り、永禄11年(1568年)甲駿関係の手切れによる武田氏の駿河侵攻においても、富士氏は大宮城に拠って武田勢に抵抗しています(大宮城の戦い)。

しかし、翌永禄12人江(1569年)には武田信玄自身の攻撃によって大宮城は開城。
この富士宮地域は武田氏の支配下に入り、富士氏は浅間大社の大宮司として存続していったということです。




う~~~~ん、富士宮地域は、実は今川・武田・北条による駿河三国志の歴史舞台そのものだったのか・・・!


「長屋門歴史の館」では、実は思ったよりそのあたりの説明のパネル展示が充実していて、狭い部屋(しかも畳!)にも関わらず大宮城のジオラマや発掘関係資料なんかもあったもんで、思わずじっくりじっくり時間をかけてへばりついてしまいました♪

・・・やばい、今回は遅く出てきたもんで富士宮での時間があまりとれないのに、ここまでで時間かけすぎ。本日の主目的の展示会が終わってしまう~!




あわてて、こんどは「長屋門」からちょっと離れたこちらにしゅたり☆

建物に入って4階でエレベーターを降り、会議室のような部屋で開催されている「富士山ゆかりの作家たち展」を通り抜けたさらに奥の小さな部屋へ。

展示物は全部で10点ほどの小さな小さな展示会です。

まずはその小部屋に入ってすぐに「信長公記」のコピーと富士遊覧の部分のパネル説明。

「信長公記」によれば、天正10年(1582年)武田氏を滅ぼした織田信長は、武田氏が伝馬制をしくなど軍用道路として使っていた中道往還(甲駿街道)を通って、富士の見物をしながら大宮に出て、徳川家康の接待を受けたようです。

また部屋の奥には、弦が張られていないので言われないとそうとはわからない「武田勝頼奉納の琴」。


そして、今回メインのひとつの「信玄直筆の願文」。




この願文は永禄13年(1570年=元亀元年)のもので、非常にはっきりした読みやすい文字で書かれています。

ところどころ読めるところを拾ってみると、どうやら「伊豆相模両州の(北条)氏康氏政滅亡」の願文のようです。「信玄」の署名、花押もはっきりしています。

ふうむ、武田信玄とはこのような字を書くヒトだったのだなぁ・・・と心が一瞬時空の彼方(笑)

武田勝頼奉納と伝わる「鉄板札紅糸威五枚銅具足」。工芸品として作られているのだと思うけど、なんか軽くて動きやすそう。

胸板の小さな2つの鋲がさりげなく花菱になっていて、結構かわいい♪




そして・・・後北条氏の納めた御朱印状。本当はこれを見たかったんだよ~!

なのに、巻物が箱に入って置かれている(ToT)
箱書きでかろうじて「北條氏康公氏政公御判御朱印 一軸」とはわかるけど・・・

静岡県立中央図書館のデジタルライブラリーには「当館所蔵の大宮司富士家文書の内訳は、中世文書34通、近世文書2通であり、数通を除き巻子本4本に収められています」とあって、そのうち北条氏関係の判物や御朱印が7通あります。

で、展示の巻物にも「北条氏古文書 七通」。もしかしてライブラリー文書の原本が目の前にあるわけ・・・?!

なのに、説明書きすらなく中身も見ることができず・・・せっかく飛んできたのに!

でも、信用金庫の一室で、おそらく地域貢献事業の一環として行われている展示会、展示環境もいいとはいえない環境だし、文化財の状況を考えたらこれが精一杯の展示なのかな。守衛さんしかいないので問いただすこともできないし・・・

それでも、なおも未練がましく張り付いていたのですが、となりに展示してある「伝秀吉の手形」には結構人がいたので、中の見れない巻物にずっと張り付いているワタシはさぞやヘンな人に見られただろうな(笑)


さて、北条氏文書への未練は断ち切れないものの時間も時間なので、せっかくだからちょいと富士宮を楽しんでから帰りましょうか。。。

というわけで、まずは富士宮やきそば!




・・・ここまでお昼ご飯ぬきでしたからね~☆

浅間大社の門前にある「富士宮やきそば学会」の直営アンテナショップで「本場の」富士宮やきそばをいただきました♪

お店の前に「富士山本宮選麺大社」なる小さな祠があるのには思わず笑。

そして、本家本元の「富士山本宮浅間大社」にお参りです。






「富士山本宮浅間大社」については、詳しくはコチラ→http://fuji-hongu.or.jp/sengen/index.html

源頼朝は建久4年(1193年)の富士の巻狩の後、大社に流鏑馬を奉納したのだそうです。で、それが現在流鏑馬祭として伝えられていて、この銅像があるようです。

境内にある「湧玉池」には富士の雪解け水が豊富に湧き出していて、昔から富士道者はこの池で身を清めてから登山する習わしになっているというのが、ものすごくよくわかる冷たくて澄んだ水です。



湧玉池から神田川に流れ出すところでの水の勢いをみると、いかに豊富に水が湧き出しているかというのが想像できます!




いい水のあるところは美味しいはず~!ということで、富士宮土産は地酒☆

あ、もちろん浅間大社の御朱印もいただいてきましたよ~♪




展示会は行った次の日に終わってしまいましたが、歴史的には興味の尽きない富士宮。
次回行くときがあれば、今度はもう少しゆっくり回ってみたいですね~!