2017年3月20日

ついでに酒蔵見学☆

毎年お彼岸の中日は、菩提寺にてお彼岸の法要です。


春らしいうららかな陽気のお天気で、今回もいい法要になりました♪


ちょっと早めにお寺さんについて、お墓の掃除が終わったらちょっとヒマになったので、お寺の周りをぷらっと散策。


お寺の周りは杉が多いと思ってたんですが、いつの間にかだいぶ伐採が進んできていて、だいぶ小ざっぱりとしてきています。

それにつれて、お花も増えてきました。
桜にたんぽぽ。いつの間にか春も進んでいるんだなぁ・・・


さて、法要とお墓参りが終わったら、これまた恒例のお食事会。
ちょうど梅が満開なので、吉野梅郷を通りながら御岳渓谷の「とうふ遊び 豆らく」へ。

このお店は澤乃井(小沢酒造)直営の自家製豆腐ゆば会席「ままごと屋」の姉妹店で、美味しいと評判の「ままごと屋」の豆腐料理を気軽にいただくことができます。


今回は「二色のざる豆富膳」。おぼろ豆腐とグリンピース豆腐に、もろみ味噌と紅塩梅がよく合ってて美味しい~!
他の小鉢も卯の花炒りや厚揚げのふき味噌のせ、大豆のお肉などお豆腐づくし☆


お店の窓からは酒蔵の経営する庭園「澤乃井園」や、その向こうの多摩川の渓谷と楓橋、寒山寺のお堂などが一望できます。
庭園の桜がまだ咲いていないのが残念。。。


お食事が終わったら、今度は「澤ノ井園」から道路を渡った反対側にある、澤乃井を作っている蔵元の酒蔵見学です。

見学前の控え室になっている「酒々小屋」で酒米の種類や精米度合い(とお値段との関係。笑)などなど、お酒造りについてさくっとわかりやすい(しかもユーモアのある)ご説明を受けてから蔵の中へ。


蔵の扉の上には神棚がお祀りされています。
澤乃井では、毎年地元青梅の御嶽山にある武蔵御嶽神社の神主さんにお祓いをしていただいて、酒造りを始めたり新酒を絞ったりなどの作業を行うのだそうです。

また、お酒の神様としては京都の松尾神社が「酒造第一祖神」なのだそうで、東京でも府中の大國魂神社の境内末社に勘定されていて、東京の各蔵元がお酒を奉納しているのだとか(澤乃井のある青梅も東京都です)。
そういえば、大國魂神社に初詣に行ったら大きな菰樽がいっぱい積まれてたっけ☆

神棚の下の大きな扉を開けると、中はひんやり。
しかも、案内をしてくださった酒造会社の方が「全員中に入ったら、最後の人はすぐに扉を閉めてください」とのこと。

説明を受けた「酒々小屋」はお客様に合わせて部屋を暖めてますが、蔵の中ではお客様より「お酒様」が大事(!)なので、もろみの発酵に合わせた温度(一般には6℃~15℃の間)に保つようにしてるのだそうです。

だから、蔵自体も温度を低めに保ちやすい昔ながらの天井が高い作りの建物。
階段の写真は明治時代からの蔵で、階段が急なのは蒸した酒米が少しでも冷めないうちに登るのに適した作りにしたらこうなった・・・とか。

また、タンクの置いてあった部屋は、なんと慶長15年(1702年)から建っているとのことで、めちゃびっくり!



蔵の通路の一つがお酒のセラーになっていて、壁の棚に瓶がずらり!
これは3年越しの古酒なのだそうで、純米や吟醸など年ごと種類ごとに瓶詰めされたお酒(それも原酒)が貯蔵されています。

透明な瓶の中味は、年数を経たものほど琥珀色。味の方はどのように熟成されるのかな・・・



最後に蔵から一度外にでて、仕込み水の井戸を見せていただきました。
澤乃井のお酒は、170年前に蔵の裏山に掘られた横井戸「蔵の井戸」から湧き出る中硬水と、「場所はあかせませんが」多摩川対岸の山の中にある「山の井戸」の軟水で仕込まれているのだそうです。

兵庫県の灘のようにミネラル分の多い硬水で作られるとしっかりとこくのある重いお酒、京都伏見のように軟水だとやわらかくなめらかで軽いお酒になります。そういえば「灘の男酒、伏見の女酒」ともいいますよね。
澤乃井では、その両方のタイプのお水をブレンドして使っているということのようです。



そしてミネラルもですが、仕込み水に大事なのが「いかに鉄分のない水か」なのだとか。
鉄分が入ってしまうと、錆が入ってしまうのと同じでお酒に雑味が出てしまい、色や味わいを悪くしてしまうとのこと。

注連縄の張られた横穴の入口を入って100mほど。ガラスでしっかり外界と区切られた先に湧水がありました。
この水は「澤乃井園」の方にも引かれていて、実際に飲むことができます。

試しに飲んでみましたが、確かに雑味がなくあっさりとした味☆



見学を終わって「酒々小屋」に戻ると、見学者には利き酒をさせてくれます。
今回の利き酒は春限定の「澤乃井本醸造 花見新酒」。ちょっぴりふわっと華やかさのある、でもさらりと飲めちゃうお酒でした。


先祖様や亡き人を偲びつつも、美味しいものをいっぱいいただいて、のんびりまったりシアワセな一日でした♪


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2017年3月6日

堂ヶ島や土肥は雨・・・(TT) ~ばあちゃんと伊豆旅行その3~

1日目の修善寺、2日目の下田に引き続き、3日目は「伊豆の松島」ともたたえられる堂ヶ島の朝から始まります。
 (1日目2日目の記事はコチラ)



宿の窓からは西伊豆の海と海底火山の名残の島々、そして海底に振り積もった火山灰や軽石がつくった地層の崖がひと目で見えます。


・・・が、お天気はあいにくの雨~!
お天気がよければ、もっと青くきれいな風景のはずなのですが。。。

せめて手前の桜の花で色を添えて・・・ほとんどくすんじゃってますね!(笑)
奥の小島群は、干潮時には渡れるようになるという三四郎島。見る角度によって島の数が3つにも4つにも見えるそうです。


でも、せっかく来たので気を取り直して、堂ヶ島公園の遊覧船乗り場へ。
ここからは、湾の防波堤みたいになっている亀島、蛇島、稗三升島を抜けて「堂ヶ島」の島々をぐるっと回る遊覧船が出ています。



定員15~16名ほどの遊覧船は、透明の屋根つきなので雨の日でも大丈夫!


ただし、カメラは窓についた水滴にピントが合っちゃう(^^;)
人間の目では、しっかり島々の崖の地層が見えますよ~☆



蛇島の崖には、変形した地層がつくった「蛇」のような模様が見えるんですが・・・うまく撮れなくて「蛇」に見えない(泣笑)


堂ヶ島の島々の崖のあちこちには、波の浸食によってできた洞窟(海蝕洞)が見られ、中には洞窟の中まで入っていけたり通り抜けができたりするような大きなものもあります。


国指定天然記念物の「天窓洞」はそんな海蝕洞のひとつですが、なんと海蝕によって大きくなった洞窟の天井が崩れて「天窓」ができてしまったという!

確かに洞窟の中から空が見えます~!ガラスの水滴で見えにくいけど☆


この「天窓洞」の真上は堂ヶ島公園になっていて、上から中を通る遊覧船が見えたりするそうです。

また、晴れていれば、空の青が洞窟内に差し込んで、見事な「青の洞窟」が見られるのだそうですが・・・また、そんな様子も見に再訪したいですね~☆

さて、雨のため堂ヶ島での公園散策予定がすべて吹っ飛んでしまったので、このまま帰宅しようか・・・
と東名道に向かって土肥のあたりを車で走っていたら、気になる看板があったので急遽お土産購入も兼ねて、そちらに寄ってみることに。



土肥金山です。
金山といえば佐渡が有名ですが、土肥は江戸時代から昭和(!)にかけて佐渡に次ぐ生産量を誇った金山なのだそうです。

昭和40年(1965年)の閉山後は観光坑道として一般公開してるとのこと。
しかし、坑道入り口のこの派手さはなんだろう・・・(^^;)


この岩盤と木組みの間にびっしりと入った細い丸太は、坑道が崩れないように実際入れていたものなのだそうです。きっと看板が派手なんですね~「金山」ぽいというか。


坑道の中にはところどころで人形による作業説明展示がされています。
写真は水汲み。地下水による坑道の水没を防ぐために常時汲み上げが必要なんですが、江戸時代は人力でやってたんですね~!

いや、他に坑内で使える動力がない以上、当然といえば当然なんですが、そのための人足が常時水汲みだけを黙々ととやっていたとは・・・
他にも掘る人運ぶ人風を送る人等々、多くの仕事を分業してやっている様子が人形で展示されていました。


そして坑道の出口のところには、この看板。
天正5年(1577年)、後北条氏配下の在地領主で伊豆水軍(北条水軍)を組織する富永氏によって、土肥で金山が本格的に採掘されるようになったのだそうです。


→で指している「金鉱脈」というのは、この赤い部分らしいです。
これが金だなんて、最初にわかった人ってすごいと思う・・・☆

ちなみにこの土肥金山の観光坑道とは別の程近い場所に、龕附天正金鉱(がんつきてんしょうきんこう)という、武田金堀衆が掘った竪坑の下に横から斜坑を掘り進めたものではないかと考えられている、ほぼ天正時代当時のまま残されている手堀りの坑道跡もあるそうです!


観光坑道の隣には、「黄金館」という資料館があります。
中には江戸時代を中心に土肥金山にかかる史料や、江戸時代の土肥金山の様子を現したジオラマや千石船なども展示されています。

後北条氏の滅亡後の伊豆は徳川氏の知行となり、慶長11年(1606年)大久保石見守長安が伊豆金山奉行を拝命してから飛躍的に生産量が増大し、徳川幕府の重要な金山として位置づけられることになったのだとのこと。


一番上の菱紋の陣笠は、その大久保長安が着用したと伝えられているもの。説明書きには「長安が武田信玄の家紋である菱紋を用いていたことが、一族死罪の理由の一つになったといわれている。」とあります。

他に「葵紋」や「丸に二両引き」「丸に頭合わせ二つ結び雁金」の紋も見えますが、いったいどなたの紋だったのかしら・・・


そして、展示の最後には資料館の名前「黄金館」の由来になったと思われる、巨大な金塊がどーん!!!

250kgもの重さで、約12億円相当のこの金塊は、世界最大ということでギネスブックにも認定されているそうで、展示ボックスの中に手を入れて触ることができます。
ちなみに写真に写っているのは、ばあちゃんの手☆

そして注意書きに「爪で傷をつけないようにしてください」。考えることはみな同じなんだなぁ(^^;)

金を削り取ってくることはできなかったけど(笑)3日間のんびりまったり、いい旅行になりました♪



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2017年3月5日

2日目は下田ぶらぶら~ばあちゃんと伊豆旅行その2~


さて、ばあちゃんとまったり伊豆旅行1日目の修善寺に引き続き、2日目は弓ヶ浜の散策から。(→ 1日目の記事はコチラ


弓ヶ浜海岸は伊豆南端の南伊豆町にあって、岬と岬の間に約1.2kmの白砂の海岸が弓なりに続いています。



海岸の両側の岬で波がさえぎられるためか、それとも季節柄なのか、「ひねもすのたりのたりかな・・・」の穏やかさ。

サーファーさんたちが結構海の中に浮かんでいましたが、少々物足りない波かも?


遠くには、行きかう船の向こうにうっすらと伊豆七島も見えます。


さて、海を見ながらまったりした後は、一面の菜の花畑!
弓ヶ浜から2kmほど下田寄りの日野(ひんの)にある「元気な百姓たちの菜の花畑」で、約3haの休耕田に地元の人たちが菜の花を植えて管理しているそうです。


「いちめんのなのはな、いちめんのなのはな・・・」とひたすら続く山村暮鳥の「風景」という詩がありますが、まさにそんな感じですね!

さて、菜の花の次は下田公園へ。



実は、この下田公園の中には後北条氏の下田城(鵜島城)の跡があるので、別名「城山公園」とも呼ばれています。

今回はばあちゃんとの旅行なので、城攻めは封印・・・とは思ったものの、やはり城好き後北条氏好きのワタシとしましてはちょこっとでも見に行きたいな~☆

ということで、ばあちゃんには下田海中水族館でも見ててもらって、その間にさくっと攻めてこようか、と水族館側の駐車場に回ったところ・・・


ばあちゃんが「私も行く!」というので、急な坂道をゆっくりゆっくり登って、とりあえず公園内のお茶ヶ崎の展望台へ。



お茶ヶ崎の展望台はちょうど海中水族館の真上にあたるので、イルカのショーが見えます!
しばらくイルカのジャンプをぼぉ~っと眺めてから、城域へ。

城めぐりの様子はもうひとつのブログ「晴れ、ときどきお城」の方に書きますが(記事はコチラ)、ばあちゃんは全部つきあって歩いてくれちゃいました。日ごろ地域の「ご長寿体操教室」で鍛えてるだけあって、思ったより結構な健脚!


下田公園から下田の町に降りてきて、まずは「日米和親条約締結の地」了仙寺へ。


嘉永7年(1843年)3月に日米和親条約が横浜で締結されたことを受けて、下田と函館(当時は箱館:開港は翌年)の開港が定められ、日本で最初の開港地となった下田にペリー艦隊が続々と入港して来ました。

横浜で締結した条約では細かい点がほとんど決められていなかったため、下田において詳細について話し合いが行われることになったのですが、その舞台となったのが、ペリー一行の応接所となったこの了仙寺です。

そして嘉永7年(1854年)5月には了仙寺において日米下田条約(日米和親条約付則13か条)が調印されたそうです。

この付則の中でアメリカ人は下田の町中を自由に歩く「遊歩権」を与えられ、また了仙寺ではアメリカ海軍の軍楽隊による「日本で最初の洋楽のコンサート」が開かれたそうです。


「開国殿」の扁額がかかっている了仙寺の本堂。
奥に「安政元年(1854年)ペリー提督黒船陸戦隊調練の図」がかかってます。



ガラス戸の上にあるのが、その「図」。

ペリーは了仙寺で日本側との交渉に入る前に、境内において対法や楽隊による観兵式と戦闘訓練の様子を披露したようで、この絵はその様子をペリーに随行した画家のヴィルヘルム・ハイネが描いたものだということです。

同じ絵が境内の石の案内板にもありました。


ほかにも境内には「横穴遺跡」があるらしい案内があったので、またずいぶん「開国」とは歴史年代が違うな~(笑)と思いながら行って見ると・・・


本堂のすぐ裏手の崖にがぼん!と開いた大きな穴!
しかも反対側から物置に使われていたらしく、仕切りの竹垣が壊れて倒れてるのが痛々しかったですが・・・

そばに立っていた案内板によると、「横穴遺跡」というのは海蝕洞窟を利用して作られた墳墓のようです。ということは、遺跡自体はこの大きな穴の横にある、この人工的な小さな穴のことなのかな?


案内板にもそこまでは書いてなかったのですが・・・

この洞窟内からは人骨とともに勾玉や水晶製の装飾品、土師器、須恵器等が出土していて、その質や量から、今から約1300~1400年ほど前のこの地域の有力者の墓と考えられているとのこと。

海が迫っていて固い岩盤が多い土地柄からか、こうした海蝕洞窟を利用した墳墓は伊豆半島南部の古代墳墓の特徴でもあるようです。


了仙寺から参堂をまっすぐ出ると、「黒船でやってきたペリー提督が条約締結のために行進した道」という「ペリーロード」が、平滑川沿いに下田公園に向かって続いています。



昔はこのあたりは花街として栄えていたのだそうで、現在でもかつて遊郭だった建物を活かした骨董店など伊豆の「なまこ壁」や伊豆石つくりの日本家屋などが残っていて、川沿いの柳並木とともに、のんびりとした風情のある道となっています。

そんなペリーロードで昼食をとろうと思ったんですが、おそば以外にこれといって適当な食事どころがなく、目についた喫茶店に入って見まして・・・


桜オレは桜の葉の粉の香りがすごく春らしくて美味しかった!
白身魚とアシタバの掻き揚げは本当はテイクアウト用らしいのですが、店内で魚のおだしのお茶漬けとともに出してもらいました。

+++おまけ+++

下田でのんびりまったり過ごしたら、次の宿泊地の堂ヶ島へ向かったのですが、途中、前夜泊まった宿でもらった甘酒サービス券があったな~と思って、立ち寄った道の駅「下賀茂温泉 湯の花」。

なんと無料の足湯がありました。さすが下賀茂温泉!


ただし、源泉かけ流しなのでそのままだとめっちゃ熱い!
ホースの水を入れて自分で調節するようになってます(笑)



あとは海を見ながらひたすら西伊豆へ。やはり伊豆は海と温泉がよい!


というわけで、3日目(最終日。記事はコチラ)につづく・・・


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