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2017年4月1日

川越デート with ばあちゃんw

TVで特集をやっていたのを見たばあちゃんに「行きたい!連れてって!!」と言われて、やってきました小江戸川越。

ところが、あいにくの雨模様。
川越は地元に近いのでばあちゃんも初めてという訳ではないし、無理して定番の街歩きはせずに、屋根のあるところを回る「雨の日プログラム」でのんびりぶらぶら行くことにしました。

まずは川越市立博物館で川越の歴史のお勉強。


博物館の常設展示室は、入ると真正面に江戸時代の川越のジオラマがどーん!と出迎えてくれます。

このジオラマを見るだけでも楽しいのですが、1日に数回決まった時間にガイドの方が案内してくださるので、今回はそれをお聞きすることに。


川越は関東平野のど真ん中。荒川と入間川の合流点に位置する地理的な要衝で、室町時代に扇谷上杉氏の家宰・太田道灌によって河越城が築かれ、上杉氏、ついで後北条氏の拠点となりました。

また、江戸時代に置かれた川越藩は江戸幕府の北の守りとして、酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱・柳沢吉保など大老・老中クラスの重臣や御家門の越前松平家が配されるなど、武蔵国一の大藩としての格式を誇りました。

これが、ジオラマの江戸時代の川越城。
寛永16年(1639年)に藩主となった松平信綱により大幅な拡張・整備が行われて、本丸、二の丸、三の丸等の各曲輪、四つの櫓、十二の門からなる近世城郭の形態が整えられました。


そして、木々の緑で四角く囲われているのが、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が慶長4年(1599年)に住職として入寺した喜多院。
なので、天海僧正の像がジオラマの喜多院をじっと見守っています♪

明治維新を迎えると川越城も廃城令により多くの建物が解体され、現在城址の大部分が市街地となっていますが、嘉永元年(1848年)に立てられた本丸御殿の一部が川越市立博物館の向かいに残っています。


これが川越城本丸御殿の大玄関です。
車寄せの上の豪壮な大唐破風に金色の葵紋が燦然と光っています☆


往時は全部で16棟、1025坪の規模をもっていた本丸御殿ですが、現在では玄関・大広間部分と家老詰所のみ。ただし本丸御殿大広間は川越城のほかには高知城にしか現存しておらず、全国的に見ても貴重な遺構なのだそうです。


その玄関と大広間の部分は、その後入間県の県庁や入間郡公会所、煙草専売局淀橋支局川越分工場へと転用され、昭和8年(1933年)には川越武道奨励会の修練道場となり、名称も初雁武徳殿に変更(玄関の前に石碑があります)、戦後は川越市立第二中学校(現在の初雁中学校)の校舎や屋内運動場と使用されていたそうです。

・・・というわけで、大広間にてひょいっと天井を見上げると、たくさんのバレーボールの跡!

受付の方々にお聞きすると、それは昭和22年~23年ごろのことだそうで、「その頃にはまさか後年この建物が保存の対象になって、このように展示されるなんて夢にも思ってなかったんだと思いますよ」とのことでした。

しかし、わざとぶつけたんじゃないかと思うくらいにくっきりとついたボールの跡を、隠したり塗りなおしたりせずにそのまま展示しているのは、これもこの御殿の「歴史」であるから、ということなんでしょうね。きっと。


さて、川越といえば・・・さつまいも!

江戸時代、武蔵野の開墾地ではさつまいもの栽培が盛んになりましたが、特に寛政年間に焼き芋が江戸で大流行すると、新河岸川や入間川の舟運で江戸に出回ったさつまいもは「川越芋」と呼ばれ「栗よりうまい十三里」というフレーズにより「川越=芋の町」のイメージが定着したとのこと。



という訳で、やってきました川越 いも膳!
すべての料理がさつまいもだという名物郷土料理「いも懐石」で有名なお店です。

今回はいも懐石ではないですが、やはり「さつまいも尽くし」が楽しめる箱弁当「いも点心」をいただくことにしました。

まずは川越のさつまいも「べにあか」のお茶と甘納豆。


お茶はおいもを乾燥させて粉にして作るのだそうですが、おいもの甘い香りがふわぁ~っと広がります(*^^*)

次に、おいもの木の芽和えと、ヒカドという椀物。


木の芽和えはつくしが乗っていて、いかにも春らしい感じです。
椀物にはすりおろしたさつまいもが入っていて、さいの目に切った野菜の中にもおいもがころん☆

その次には、いよいよ箱膳です。


左側は定番、おいもの天ぷら。
真ん中は、薄焼き卵でくるんだうなぎご飯の中においもがころころ入っていて、意表をつきます。

そして右側のお蕎麦は、なんとそば粉ではなくさつまいもの粉を練って作ってあるそうな!
確かにお蕎麦の香りはありませんが、普通の麺といってもまったくわからない感じです☆


おいものデザートまでぺろっといただいて、おいも料理に満足満足・・・(^^)
雨の日の川越をしっかり堪能した半日でした♪


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2017年3月6日

堂ヶ島や土肥は雨・・・(TT) ~ばあちゃんと伊豆旅行その3~

1日目の修善寺、2日目の下田に引き続き、3日目は「伊豆の松島」ともたたえられる堂ヶ島の朝から始まります。
 (1日目2日目の記事はコチラ)



宿の窓からは西伊豆の海と海底火山の名残の島々、そして海底に振り積もった火山灰や軽石がつくった地層の崖がひと目で見えます。


・・・が、お天気はあいにくの雨~!
お天気がよければ、もっと青くきれいな風景のはずなのですが。。。

せめて手前の桜の花で色を添えて・・・ほとんどくすんじゃってますね!(笑)
奥の小島群は、干潮時には渡れるようになるという三四郎島。見る角度によって島の数が3つにも4つにも見えるそうです。


でも、せっかく来たので気を取り直して、堂ヶ島公園の遊覧船乗り場へ。
ここからは、湾の防波堤みたいになっている亀島、蛇島、稗三升島を抜けて「堂ヶ島」の島々をぐるっと回る遊覧船が出ています。



定員15~16名ほどの遊覧船は、透明の屋根つきなので雨の日でも大丈夫!


ただし、カメラは窓についた水滴にピントが合っちゃう(^^;)
人間の目では、しっかり島々の崖の地層が見えますよ~☆



蛇島の崖には、変形した地層がつくった「蛇」のような模様が見えるんですが・・・うまく撮れなくて「蛇」に見えない(泣笑)


堂ヶ島の島々の崖のあちこちには、波の浸食によってできた洞窟(海蝕洞)が見られ、中には洞窟の中まで入っていけたり通り抜けができたりするような大きなものもあります。


国指定天然記念物の「天窓洞」はそんな海蝕洞のひとつですが、なんと海蝕によって大きくなった洞窟の天井が崩れて「天窓」ができてしまったという!

確かに洞窟の中から空が見えます~!ガラスの水滴で見えにくいけど☆


この「天窓洞」の真上は堂ヶ島公園になっていて、上から中を通る遊覧船が見えたりするそうです。

また、晴れていれば、空の青が洞窟内に差し込んで、見事な「青の洞窟」が見られるのだそうですが・・・また、そんな様子も見に再訪したいですね~☆

さて、雨のため堂ヶ島での公園散策予定がすべて吹っ飛んでしまったので、このまま帰宅しようか・・・
と東名道に向かって土肥のあたりを車で走っていたら、気になる看板があったので急遽お土産購入も兼ねて、そちらに寄ってみることに。



土肥金山です。
金山といえば佐渡が有名ですが、土肥は江戸時代から昭和(!)にかけて佐渡に次ぐ生産量を誇った金山なのだそうです。

昭和40年(1965年)の閉山後は観光坑道として一般公開してるとのこと。
しかし、坑道入り口のこの派手さはなんだろう・・・(^^;)


この岩盤と木組みの間にびっしりと入った細い丸太は、坑道が崩れないように実際入れていたものなのだそうです。きっと看板が派手なんですね~「金山」ぽいというか。


坑道の中にはところどころで人形による作業説明展示がされています。
写真は水汲み。地下水による坑道の水没を防ぐために常時汲み上げが必要なんですが、江戸時代は人力でやってたんですね~!

いや、他に坑内で使える動力がない以上、当然といえば当然なんですが、そのための人足が常時水汲みだけを黙々ととやっていたとは・・・
他にも掘る人運ぶ人風を送る人等々、多くの仕事を分業してやっている様子が人形で展示されていました。


そして坑道の出口のところには、この看板。
天正5年(1577年)、後北条氏配下の在地領主で伊豆水軍(北条水軍)を組織する富永氏によって、土肥で金山が本格的に採掘されるようになったのだそうです。


→で指している「金鉱脈」というのは、この赤い部分らしいです。
これが金だなんて、最初にわかった人ってすごいと思う・・・☆

ちなみにこの土肥金山の観光坑道とは別の程近い場所に、龕附天正金鉱(がんつきてんしょうきんこう)という、武田金堀衆が掘った竪坑の下に横から斜坑を掘り進めたものではないかと考えられている、ほぼ天正時代当時のまま残されている手堀りの坑道跡もあるそうです!


観光坑道の隣には、「黄金館」という資料館があります。
中には江戸時代を中心に土肥金山にかかる史料や、江戸時代の土肥金山の様子を現したジオラマや千石船なども展示されています。

後北条氏の滅亡後の伊豆は徳川氏の知行となり、慶長11年(1606年)大久保石見守長安が伊豆金山奉行を拝命してから飛躍的に生産量が増大し、徳川幕府の重要な金山として位置づけられることになったのだとのこと。


一番上の菱紋の陣笠は、その大久保長安が着用したと伝えられているもの。説明書きには「長安が武田信玄の家紋である菱紋を用いていたことが、一族死罪の理由の一つになったといわれている。」とあります。

他に「葵紋」や「丸に二両引き」「丸に頭合わせ二つ結び雁金」の紋も見えますが、いったいどなたの紋だったのかしら・・・


そして、展示の最後には資料館の名前「黄金館」の由来になったと思われる、巨大な金塊がどーん!!!

250kgもの重さで、約12億円相当のこの金塊は、世界最大ということでギネスブックにも認定されているそうで、展示ボックスの中に手を入れて触ることができます。
ちなみに写真に写っているのは、ばあちゃんの手☆

そして注意書きに「爪で傷をつけないようにしてください」。考えることはみな同じなんだなぁ(^^;)

金を削り取ってくることはできなかったけど(笑)3日間のんびりまったり、いい旅行になりました♪



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2017年3月5日

2日目は下田ぶらぶら~ばあちゃんと伊豆旅行その2~


さて、ばあちゃんとまったり伊豆旅行1日目の修善寺に引き続き、2日目は弓ヶ浜の散策から。(→ 1日目の記事はコチラ


弓ヶ浜海岸は伊豆南端の南伊豆町にあって、岬と岬の間に約1.2kmの白砂の海岸が弓なりに続いています。



海岸の両側の岬で波がさえぎられるためか、それとも季節柄なのか、「ひねもすのたりのたりかな・・・」の穏やかさ。

サーファーさんたちが結構海の中に浮かんでいましたが、少々物足りない波かも?


遠くには、行きかう船の向こうにうっすらと伊豆七島も見えます。


さて、海を見ながらまったりした後は、一面の菜の花畑!
弓ヶ浜から2kmほど下田寄りの日野(ひんの)にある「元気な百姓たちの菜の花畑」で、約3haの休耕田に地元の人たちが菜の花を植えて管理しているそうです。


「いちめんのなのはな、いちめんのなのはな・・・」とひたすら続く山村暮鳥の「風景」という詩がありますが、まさにそんな感じですね!

さて、菜の花の次は下田公園へ。



実は、この下田公園の中には後北条氏の下田城(鵜島城)の跡があるので、別名「城山公園」とも呼ばれています。

今回はばあちゃんとの旅行なので、城攻めは封印・・・とは思ったものの、やはり城好き後北条氏好きのワタシとしましてはちょこっとでも見に行きたいな~☆

ということで、ばあちゃんには下田海中水族館でも見ててもらって、その間にさくっと攻めてこようか、と水族館側の駐車場に回ったところ・・・


ばあちゃんが「私も行く!」というので、急な坂道をゆっくりゆっくり登って、とりあえず公園内のお茶ヶ崎の展望台へ。



お茶ヶ崎の展望台はちょうど海中水族館の真上にあたるので、イルカのショーが見えます!
しばらくイルカのジャンプをぼぉ~っと眺めてから、城域へ。

城めぐりの様子はもうひとつのブログ「晴れ、ときどきお城」の方に書きますが(記事はコチラ)、ばあちゃんは全部つきあって歩いてくれちゃいました。日ごろ地域の「ご長寿体操教室」で鍛えてるだけあって、思ったより結構な健脚!


下田公園から下田の町に降りてきて、まずは「日米和親条約締結の地」了仙寺へ。


嘉永7年(1843年)3月に日米和親条約が横浜で締結されたことを受けて、下田と函館(当時は箱館:開港は翌年)の開港が定められ、日本で最初の開港地となった下田にペリー艦隊が続々と入港して来ました。

横浜で締結した条約では細かい点がほとんど決められていなかったため、下田において詳細について話し合いが行われることになったのですが、その舞台となったのが、ペリー一行の応接所となったこの了仙寺です。

そして嘉永7年(1854年)5月には了仙寺において日米下田条約(日米和親条約付則13か条)が調印されたそうです。

この付則の中でアメリカ人は下田の町中を自由に歩く「遊歩権」を与えられ、また了仙寺ではアメリカ海軍の軍楽隊による「日本で最初の洋楽のコンサート」が開かれたそうです。


「開国殿」の扁額がかかっている了仙寺の本堂。
奥に「安政元年(1854年)ペリー提督黒船陸戦隊調練の図」がかかってます。



ガラス戸の上にあるのが、その「図」。

ペリーは了仙寺で日本側との交渉に入る前に、境内において対法や楽隊による観兵式と戦闘訓練の様子を披露したようで、この絵はその様子をペリーに随行した画家のヴィルヘルム・ハイネが描いたものだということです。

同じ絵が境内の石の案内板にもありました。


ほかにも境内には「横穴遺跡」があるらしい案内があったので、またずいぶん「開国」とは歴史年代が違うな~(笑)と思いながら行って見ると・・・


本堂のすぐ裏手の崖にがぼん!と開いた大きな穴!
しかも反対側から物置に使われていたらしく、仕切りの竹垣が壊れて倒れてるのが痛々しかったですが・・・

そばに立っていた案内板によると、「横穴遺跡」というのは海蝕洞窟を利用して作られた墳墓のようです。ということは、遺跡自体はこの大きな穴の横にある、この人工的な小さな穴のことなのかな?


案内板にもそこまでは書いてなかったのですが・・・

この洞窟内からは人骨とともに勾玉や水晶製の装飾品、土師器、須恵器等が出土していて、その質や量から、今から約1300~1400年ほど前のこの地域の有力者の墓と考えられているとのこと。

海が迫っていて固い岩盤が多い土地柄からか、こうした海蝕洞窟を利用した墳墓は伊豆半島南部の古代墳墓の特徴でもあるようです。


了仙寺から参堂をまっすぐ出ると、「黒船でやってきたペリー提督が条約締結のために行進した道」という「ペリーロード」が、平滑川沿いに下田公園に向かって続いています。



昔はこのあたりは花街として栄えていたのだそうで、現在でもかつて遊郭だった建物を活かした骨董店など伊豆の「なまこ壁」や伊豆石つくりの日本家屋などが残っていて、川沿いの柳並木とともに、のんびりとした風情のある道となっています。

そんなペリーロードで昼食をとろうと思ったんですが、おそば以外にこれといって適当な食事どころがなく、目についた喫茶店に入って見まして・・・


桜オレは桜の葉の粉の香りがすごく春らしくて美味しかった!
白身魚とアシタバの掻き揚げは本当はテイクアウト用らしいのですが、店内で魚のおだしのお茶漬けとともに出してもらいました。

+++おまけ+++

下田でのんびりまったり過ごしたら、次の宿泊地の堂ヶ島へ向かったのですが、途中、前夜泊まった宿でもらった甘酒サービス券があったな~と思って、立ち寄った道の駅「下賀茂温泉 湯の花」。

なんと無料の足湯がありました。さすが下賀茂温泉!


ただし、源泉かけ流しなのでそのままだとめっちゃ熱い!
ホースの水を入れて自分で調節するようになってます(笑)



あとは海を見ながらひたすら西伊豆へ。やはり伊豆は海と温泉がよい!


というわけで、3日目(最終日。記事はコチラ)につづく・・・


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