2015年2月28日

高麗郷古民家のひなまつり♪

埼玉県内で国道16号線と299号線を結ぶ県道15号川越日高線の、曼珠沙華で有名な巾着田のまん前に、堂々たる石垣の大きなお屋敷があります。

生活道路としてこの前をよく通るんですが、その度に気になっていたところ、このお屋敷が実は国登録有形文化財「高麗郷古民家」として一般に公開されていて、ちょうどひな祭りやってるよ~!という情報をGETしたので、初めて行ってみることにしました。




高麗本郷という地名のこの巾着田のあたりは、続日本紀に「霊亀2年(716年)に、甲斐・駿河・相模・上総・下総・下野の七カ国の高麗人1799人を集めて武蔵国に移し、高麗郡を置く」旨の記載のある古いお土地柄、旧高麗村の中心地です。

そして、この古民家はかつて江戸時代に名主を務め、後に高麗村の村長も務めていた新井家の屋敷なんです。





門の中に入って枡形か~?と思わせる通路を鉤の手に曲がりながら坂を上がると・・・




・・・右手に木造の入母屋作りの母屋、正面に白壁の客殿が現れます☆

母屋の土間に入ると、土間からすぐの座敷の奥の床の間側には五段飾りのお雛様。
そして座敷の手前いっぱいに、手作りのつるし雛~!





よくよく見ると床の緋毛氈の上には、手作りお手玉のおひなさまがちょこん。
・・・カワイイ♪






座敷に続く出居などの間にも段飾りが誂えられてい廊下越しに見ることが出来るようになっています。

昔、この屋敷が華やかなりし頃のひな祭りもこうだったのかもしれないなぁ・・・と感慨しきり。


向唐破風の式台構えで格式高く作られている客殿の玄関にも、飾り付けがされていました。
こちらは約100年前の古いおひな様。






玄関の隣の客間にはいくつもの御殿飾り。
昭和30年代くらいのものが多くて、御殿飾りはもっと古いものが主流かと思っていたのでちょっとびっくり。

でもいずれも豪華ですね~♪

おひな様を堪能した後は、こそっと建物の裏手に回ってみました。
土蔵のそばには樹齢数百年という見事なタブの木や・・・






水路にかかっているコンクリートの渡し板にくっきりとニワトリの足跡?(笑)

そもそも建物自体が見事でですし、おひな様以外にもなかなかに見どころ満載なのですが、裏にずんずん入っていって目に入ってきたものにびっくり☆




すいません~!これ以上は行きませんのでお許しくださいませ(>o<;)

・・・て、もちろんこの札はお寺の冗談まじりの警告文なんですが、それにしてもお寺が「打ち首」って~www


2015年2月17日

永青文庫「信長の手紙」展に行ってきました~♪

目白のホテル椿山荘のすぐそばにある永青文庫は、旧熊本藩主細川家の歴代藩主所用の甲冑や書画、古文書などを収蔵・公開している博物館。

旧細川公爵家の広大な敷地の一角に家政所(事務所)として昭和初期に建てられた建物です。

この永青文庫で1/6~3/15に開催されているのが、「重要文化財指定記念『信長からの手紙』~細川コレクションの信長文書59通、一挙公開!~」。

実はワタシ、この企画展のことを近所の新聞代理店の「チケットプレゼントキャンペーン」ちらしで初めて知りまして・・・(*^^*)

その時には2/8までの前期展示は終わっちゃってた!残念・・・

で、たまたま通院のため仕事の休みをとっていたこの日に、診察が終わってから出かけることにいたしました☆






目白駅前からバスに乗り10分程度。雅叙園の前でバスを降りて、あいにくのお天気で小雨しょぼ降る中、永青文庫へ。

入り口ガラスが入った扉には展示会のチラシが貼ってあるだけで、企画展をやっている様子があまり感じられない入り口を入り・・・

永青文庫の中は撮影禁止なので、内部の写真はありません☆m(_ _)m





会場で配布されていた今回の展示会目録によると、展示品は全部で67点。

細川幽斎像と(元亀4年)3月7日細兵殿あて黒印状が通期で展示、あとは前期と後期でほぼ半数ずつ入れ替わっているようです。

今回、後期の展示を見た中で特に印象的だったのは、長篠合戦後に岐阜に凱旋した信長公の、天正3年(1575年)5月26日付け細川藤孝公あて返書。

もちろん、ワタシは古文書にあるような崩し字は全く(!)読めないので、解説を見ながら「あ、ここはこういうことを書いてあるのか~」と追っていくのがやっとなんですが。。。

この文書は、そんな素人な私の目にもパッと見から他の文書とはかなり、字の整い具合が違う感じに見えました。

他の文書では字のリズムも墨の濃さも割と一定で落ち着いた感じなんですが、これは祐筆(武井夕庵)が書いているにも関わらず、急いで書いたような墨の継ぎ足し方やかすれ具合に見えます。

言葉も、「四郎首未見之候 大要切捨 河ヘ漂候武者若干之条 其内ニ可有之歟」とか「近年之散鬱憤候」のあたりなどは、言葉の使い方が武田氏に対する恨みがすごい!という感じ☆

この手紙って、もしかしたら信長公が「こう書いて遣わせ!」と(たとえば、首は見てないけどおおかたその辺の川に漂ってる死体の中にでもあるんじゃないか、とか、ザマアミロ!みたいに)言った言葉を、そばで必死に祐筆が手紙文にまとめながら書いたんじゃないか・・・なんて、妄想がむくむく膨らんじゃいます(笑)

それくらい、書いた時の生々しい状況が垣間見えるようで、すごい迫力!






その他にも、祐筆の手になる事務的な文書や儀礼的な文書の整った文面の合間に、さらさらっとつけられた追伸(追而書)部分に、すごく人間味を感じてしまったり・・・♪

たとえば、天正5年(1577年)2月11日付けの朱印状。

本文は大きく整った字の事務的な命令文で、紀伊根来寺への信長公の出馬は13日に早めるので指示次第で動けるように」と指示していながら、追伸ではさらさらっと「杉坊からの状況報告で即時出馬」と記しています。

ということは・・・命令文を書いて発送しようとしていたところに杉坊からの連絡が来て状況が変わったので、あわてて追記して送ったんだな~と、これまた状況を妄想むくむく(笑)

他にも、天正7年(1579年)正月12日の黒印状では、荒木村重の有岡城攻めのために越年で付城に駐屯していた藤孝公へのねぎらいと、子息との在番交代の許可について書かれているんですが、追伸部分に「知多でとれて禁裏へ進上した鯨の一部をおすそわけ」と、これもさらさらっとさりげなく書いてあって、なんとなくココロがほっこり☆

追伸(追而書)のある文書ってそんなに数はなかったんですが、ワタシ的には今回のはまりどころで、何度も見入ってしまいました。

実は数日前にTVで「信長の手紙」の特集をやってたらしく、見てから来ればもっと理解が深まったのかもしれないな~とちょっぴり残念ではあったんですが、見てなくても十分に堪能できた企画展でした!


2015年2月11日

城山砦と鎧展に行ってきました ~伊澤昭二コレクションを中心に~

狭山市立博物館は、「埼玉県のお茶香る町」狭山市の「県営狭山稲荷山公園」の中にあります。

西武池袋線稲荷山公園駅のすぐそばにあって、普段は常設展示で狭山の太古から近現代までの歴史的資料を展示している、いわば「郷土資料館」的な施設です。

で、常設展示のほかに年に2~3回企画展を開催していて、これまでは恐竜だったり鉄道だったり文明開化だったりと、戦国時代とか「城」に関連したような企画展は見当たらなかったのですが・・・






今年に入ってからTwitterのTLに流れてきたツイで、11/29~3/1の冬季企画展として「城山砦と鎧展」というのが開催されていて、特に鎧の展示がなかなか充実していてよかった♪というのを見かけまして。

これは行ってみようかな~と思いつつ、自宅から近く(隣町)だし、いつでも行けると思って行くのを延ばし延ばしにしていたのですが、やっと買い物ついでに行ってみることにしました(^o^;)

で、車をとばして40分ほど。企画展・常設展示共用で150円の入館料を払って展示室の中に入りますと、まず一階では城山砦の展示。

そして2階の企画展示室に城山砦の展示と、お目当ての「なかなか充実していた」という「鎧展」の展示があります♪

城山砦の展示については、「お城ネタ」なのでワタシのもうひとつのブログ(natchdesの城攻め備忘録)の方に記事をあげるとしまして・・・




まず、胴の前面にでかでかと三鱗紋が朱漆で描かれている具足を見つけて、いきなりテンションあがった~!

いや、三鱗紋が単純なせいなのか、それとも小田原北条氏ってあまりかっこいいってイメージがないからなのか、悲しいことに小田原北条氏関連のグッズってどこに行ってもほとんど見かけないし、展示ってあまり見かけないもんで・・・

この、うれしいほどデカデカと三鱗紋を描いてくれている仏胴は「和紙製黒漆塗二枚仏胴」といいまして、小田原北条氏家中で使われていたもののようです。

・・・あ、写真については、展示室内に「写真撮影禁止」の張り紙がなかったので、あれ?と思って念のため博物館の職員さんに声をかけまして、撮影とブログ掲載について「商業目的でなければOK」の了承を得てます~!

ちなみに常設展示の方には「撮影禁止」の張り紙があります。一般的には制限が厳しい企画展の方がここでは制限が緩いのは、図録がないからなんでしょうかね~☆



この「鎧展」に展示されている具足等は、狭山市在住で甲冑の収集・研究をされている伊澤昭二氏が所有しているものだそうで、今までも全国各地で公開されているようです。

今回の企画展では、パンフレット等では城山砦(柏原城)が主で、この伊澤氏コレクションは「戦国時代の合戦の様に思いをはせていただきます」とさらっと触れているだけで、どうにも「城山砦」展示とリンクがされていないのが、なんともとってつけたようで変な感じです。

「城山砦」は俗に「河越夜戦」と呼ばれている、天文15年(1546年)の北条氏康軍と山内北条憲政・扇谷上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍による河越城争奪戦の際に、上杉憲政が陣を敷いたといわれています。

実際に展示されているのは結構小田原北条氏関連のものもあったりしたので、もっと双方をリンクしたような展示にすると、北条好きはもっと妄想を掻きたてられてよだれがダラダラ・・・なのにな~☆


たとえばこれは、伝・伊勢新九郎長氏(北条早雲)所用の黒漆塗軍配(写し)。

伊豆木負(静岡県沼津市)の飴玉白珠比咩命神社に伝わるものの写しですが、竹製の柄に練り皮を6枚合わせて麻布を張って黒漆で仕上げられた、とてもシンプルかつコンパクトな軍配で、早雲おじいちゃまはとても質素だったんだろうな~と妄想がむくむく・・・なお品です。

この造り方は、次の伝・北条氏康どの所用の黒漆塗日月軍配と同じです。

ただし、氏康どのの軍配はもうちょっとだけ羽が大きくて、片面に日輪、もう片面に月輪を金箔で大きく押してあって、派手やかな印象。






隣には同じく氏康どの所用の鉄地黒漆塗十二間筋兜。
吹返の据紋や鉢付鋲に北条家定紋の三鱗紋がついてる~!!ワクワクw(☆o☆)w

お次は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に、支城の鉢形城や八王子城の兵士(在地小土豪)たちが着料して戦ったという、関東五枚胴です。

ただし、現存しているものは極めて少なくて、たった3領しかないとのこと。

展示されているものは、胸板が広く腰がきゅっと締まったちょっとマッチョ系のスタイルの胴に、赤漆塗りの皺皮がとても美しい草摺がついています。





そして、河内狭山藩北条氏3代目氏信の頃に作られたと考えられている、鉄地黒漆塗五枚胴。
関東五枚胴よりも時代が下がっているせいか、胴の形もすいぶん変わってずんぐりむっくりな印象です(^o^;)

そして、よくよく見ると前側に鉄砲の試し撃ちの跡が2ヶ所、ぺこぺこっと凹んでるし・・・☆


また、小田原北条氏関連以外にも、意外な?甲冑が展示されていました。





伝・森蘭丸所用の金箔押色々縅伊予札胴丸具足と網代製軍配団扇。
近江の豪商伴伝兵衛家に代々伝えられたもので、具足櫃の正面や軍配の箱書きに「森蘭丸公御召」の旨記載がある・・・のですが。

一般的には「森蘭丸」として知られていますが、「信長公記」では「森乱」、その他の文献でも「森乱法師」「森乱成利」とされているようなので、この具足と軍配について実際にはどうなのか、よくわかりません☆


その他にも伝・上杉景勝所用の鉄地黒漆塗縦矧二枚胴具足(座り方がカワイイ!)や、武田信玄・勝頼2代に仕えて武田の赤備えとして勇名を馳せた小幡信貞所用と伝えられる黒漆塗二枚仏胴具足とか。。。





秀吉の小田原攻めの時に用いられたという九鬼水軍の「あら波」の旗印(伝・九鬼嘉隆)があったのには、かなりびっくり!


他にも伝・小幡信貞所用の軍配や赤羅紗の陣羽織、伝・稲葉貞通所用の筋兜、伝・豊臣秀吉所用の背中にどどーんと桐紋が描かれた白羅紗の陣羽織なんかが展示されています。

また、いろいろな合印の足軽具足がところ狭しと並べられていて、なかなかににぎやかです。

企画展の展示室はたった1部屋だけなのですが、ぎゅぎゅっと濃縮された展示で、しかも他のお客は全くなくてほぼ貸しきり状態。

ゆ~ったりとま~ったりと時間を忘れて展示にへばりついておりました。

本当に小田原北条氏好き、甲冑好きには堪えられない展示でしたね~!

企画展展示期間終了の3/3までまだあと1ヶ月。また来れるかな?