目白のホテル椿山荘のすぐそばにある永青文庫は、旧熊本藩主細川家の歴代藩主所用の甲冑や書画、古文書などを収蔵・公開している博物館。
旧細川公爵家の広大な敷地の一角に家政所(事務所)として昭和初期に建てられた建物です。
この永青文庫で1/6~3/15に開催されているのが、「重要文化財指定記念『信長からの手紙』~細川コレクションの信長文書59通、一挙公開!~」。
実はワタシ、この企画展のことを近所の新聞代理店の「チケットプレゼントキャンペーン」ちらしで初めて知りまして・・・(*^^*)
その時には2/8までの前期展示は終わっちゃってた!残念・・・
で、たまたま通院のため仕事の休みをとっていたこの日に、診察が終わってから出かけることにいたしました☆
目白駅前からバスに乗り10分程度。雅叙園の前でバスを降りて、あいにくのお天気で小雨しょぼ降る中、永青文庫へ。
入り口ガラスが入った扉には展示会のチラシが貼ってあるだけで、企画展をやっている様子があまり感じられない入り口を入り・・・
永青文庫の中は撮影禁止なので、内部の写真はありません☆m(_ _)m
会場で配布されていた今回の展示会目録によると、展示品は全部で67点。
細川幽斎像と(元亀4年)3月7日細兵殿あて黒印状が通期で展示、あとは前期と後期でほぼ半数ずつ入れ替わっているようです。
今回、後期の展示を見た中で特に印象的だったのは、長篠合戦後に岐阜に凱旋した信長公の、天正3年(1575年)5月26日付け細川藤孝公あて返書。
もちろん、ワタシは古文書にあるような崩し字は全く(!)読めないので、解説を見ながら「あ、ここはこういうことを書いてあるのか~」と追っていくのがやっとなんですが。。。
この文書は、そんな素人な私の目にもパッと見から他の文書とはかなり、字の整い具合が違う感じに見えました。
他の文書では字のリズムも墨の濃さも割と一定で落ち着いた感じなんですが、これは祐筆(武井夕庵)が書いているにも関わらず、急いで書いたような墨の継ぎ足し方やかすれ具合に見えます。
言葉も、「四郎首未見之候 大要切捨 河ヘ漂候武者若干之条 其内ニ可有之歟」とか「近年之散鬱憤候」のあたりなどは、言葉の使い方が武田氏に対する恨みがすごい!という感じ☆
この手紙って、もしかしたら信長公が「こう書いて遣わせ!」と(たとえば、首は見てないけどおおかたその辺の川に漂ってる死体の中にでもあるんじゃないか、とか、ザマアミロ!みたいに)言った言葉を、そばで必死に祐筆が手紙文にまとめながら書いたんじゃないか・・・なんて、妄想がむくむく膨らんじゃいます(笑)
それくらい、書いた時の生々しい状況が垣間見えるようで、すごい迫力!
その他にも、祐筆の手になる事務的な文書や儀礼的な文書の整った文面の合間に、さらさらっとつけられた追伸(追而書)部分に、すごく人間味を感じてしまったり・・・♪
たとえば、天正5年(1577年)2月11日付けの朱印状。
本文は大きく整った字の事務的な命令文で、紀伊根来寺への信長公の出馬は13日に早めるので指示次第で動けるように」と指示していながら、追伸ではさらさらっと「杉坊からの状況報告で即時出馬」と記しています。
ということは・・・命令文を書いて発送しようとしていたところに杉坊からの連絡が来て状況が変わったので、あわてて追記して送ったんだな~と、これまた状況を妄想むくむく(笑)
他にも、天正7年(1579年)正月12日の黒印状では、荒木村重の有岡城攻めのために越年で付城に駐屯していた藤孝公へのねぎらいと、子息との在番交代の許可について書かれているんですが、追伸部分に「知多でとれて禁裏へ進上した鯨の一部をおすそわけ」と、これもさらさらっとさりげなく書いてあって、なんとなくココロがほっこり☆
追伸(追而書)のある文書ってそんなに数はなかったんですが、ワタシ的には今回のはまりどころで、何度も見入ってしまいました。
実は数日前にTVで「信長の手紙」の特集をやってたらしく、見てから来ればもっと理解が深まったのかもしれないな~とちょっぴり残念ではあったんですが、見てなくても十分に堪能できた企画展でした!