2014年8月26日

会津武家屋敷と日新館 ~会津旅行3日目~

・・・というわけで、会津への家族旅も3日目。(これまでの様子はコチラ → 1日目 2日目
そしてついに、あいにくの雨。

これでは、あまり動きが取れないな・・・さて、どこを回ろうか?
と途方に暮れながら、前夜に宿泊した東山温泉から会津若松の市街に向かって降りていくと、ふと看板と石垣?が目に入りました。

「会津武家屋敷」。雨でも見れそう。行ってみようか!




「会津武家屋敷」は「会津藩家老西郷頼母邸を中心に、重要文化財の旧中畑陣屋や会津歴史史料館などが陣を連ねる総合ミュージアムパーク」だそうです。

駐車場で車を降りて冠木門をくぐると、左手に「家老屋敷」の片長屋のなまこ壁風の建物が続き、
その先に「家老屋敷」の表門が現れます。




会津若松の市街図をみると、鶴ヶ城正面の追手町に西郷頼母邸跡というのがありますが、この「会津武家屋敷」に中の「家老屋敷」は、その会津藩家老西郷頼母邸を復元したものだそうです。

西郷家は会津藩松平家譜代の家臣で、代々家老職を務めた1700石取りの家柄。西郷頼母近悳(ちかのり)は幕末期に藩主・松平容保に使えた西郷家の当主です。




「家老屋敷」の四脚門様式の表門や、その奥に見える式台玄関と玄関上の九曜の紋章を付けた鬼瓦などは、藩主・保科家(会津松平家)の分家でもあるという西郷家の格式の高さを表すもの。




表門も、式台玄関も、上級武士だけしか使うことができません。
頼もう~!(・o・)/




建築面積280坪の広大な屋敷は、部屋数38!
内部は「身分の高いお客様の接待所」「家老や家臣たちの執務所」「家族の生活の場」「女中や使用人たちの仕事場」と大きく4つに分かれます。




まずは「身分の高いお客様の接待所」御成御殿の一角にある「御成の間」書院壱の間。
藩主が御成になったときのみ使用された部屋です。




御成の間には専用の厠があります。
厠の床下には砂を敷いた箱車が木製のレールの上に置かれていて、使用後はこの箱車を引き出し、健康状態を調べた後に砂ごと後始末をしたのだそうです。

なんか、落ち着かなそう~(笑)




式台玄関のすぐ両側には、城からの使者が家老と会った「使者の間」と、玄関番が常時2~3名詰めて緊急事態に備えていた「槍の間」があります。

「槍の間」の中央には「通り畳」といって、玄関番が敵の侵入など緊急の際に畳の縁につまづいたりしないように、通り道のように畳が敷かれているのですが・・・この奥から家臣たちが一列に走り抜けるのを想定してるってことかな。




「家族の生活の場」にあるヒノキ造りのお風呂場。
半開きになって外に出ているのが「突出し窓」で、窓の重さで自然に閉まるようになってます。

現在は内部丸見えになってますが、当時はさすがに壁か障子があったんですよね・・・?(笑)

火災予防のため竈がないので、お湯は邸内で唯一火を用いることができた台所で沸かして、手桶で運んで使った・・・そうですが、台所結構離れてるので、お風呂に入るのも大変だったろうな~☆




屋敷とは別棟に、直径4mの水車と藩米の精米所があります。

今から200年ほど前に白川藩で建てられて使用されていた精米所を移築復元したもののようで、水力を利用して、1日に4斗俵(約60kg)の玄米を16俵ほど精米していたといわれてます。




また屋敷に戻って、お風呂場とは奥玄関を挟んだ反対側の棟にある台所。
北国のせいか?天井の梁が立派!天井がなくて吹き抜けになっているのがちょっと寒そうだけど☆




ぐるっと回って、表玄関にも近い「中の口玄関」と番所。家臣たちの出入り口になっていました。




屋敷の「中の口玄関」から表の式台玄関には行かずに裏門方向へ行くと、片長屋が「第2資料館」となっていて、会津の幕末期を中心とした展示がされています。

写真には撮れなかったのですが、戊辰戦争の際の西郷一族の自刃の場がリアルに再現されていて、涙を誘います・・・(。、)

裏門から「家老屋敷」を出たら雨が小やみになっていたので、ちょっと場内を歩いてみることにしました。




ふと見ると、風情のある小さな建物が。

嶺南庵麟閣という茶室で、会津領主蒲生氏郷の庇護を受けた千利休の子少庵が鶴ヶ城本丸内に造った茶室「麟閣」を再現したものだそうです。




中には入れませんでしたが、外からのぞくとお茶室の中は案外明るくて広いですね♪

なお、元の「燐閣」の方は、奇跡的に戊辰戦争の戦火にも残って鶴ヶ城解体の際にご城下に移築されていたものが、平成2年(1990年)に鶴ヶ城内の建造当初の場所に移築・復元されているそうです!

「会津武家屋敷」の城内には、この他にも「旧中畑陣屋(東北に残った最後の代官所の建物)」とか「竜馬を斬った男・佐々木只三郎の墓」とか、いろいろ見どころがあるようなのですが、ここでまたもや雨がひどくなってきたので、とにかく車に逃げ込んで、帰宅方向の磐越道方面に移動することに・・・

で、移動しながら、ここなら雨降りでもなんとか見れるかな?と思って寄ってみたのが、日新館(にっしんかん)。




日新館まで着いたら、結構な土砂降り。

前日に飯盛山で転んだダメージで膝が痛いので雨の中を無理して動きたくない、というじいちゃんを車に残し、大急ぎでサクッと見学です。

駐車場からせっせと階段を上がって南門を潜り、戟門(げきもん)へ。「戟」という武器を持った衛兵が監視していたことから、戟門と呼ばれたそうで、この門に太鼓を置いて授業の時間を知らせていたとのこと。なぜか大きな狛犬が通路をにらんでおりました(^o^;)

ここまでで、すでにしっかりびしょ濡れ~!(>o<)




日新館は、戊辰戦争やその後に活躍する人材を数多く輩出したという、会津藩の藩校です。
江戸時代後期の享和3年(1803年)に鶴ヶ城の西隣り、現在天文台跡のみ残っている場所に、面積8000坪、建物1500坪という広さを持つ、全国屈指の教育機関として建てられたそうです。

幕末の戊辰戦争により校舎は全て焼失してしまったのですが、藩校に関する図面等の資料が残っていたため、昭和62年(1987年)に鶴ヶ城から離れた現在の場所(河東町)に完全復元して、博物館や道場等として開館したとのこと。

門を潜ると、広い中庭を挟んで真正面に大成殿。右に東塾、左に西宿がぐるりと中庭を囲んでいます。




東塾、西宿ともに初等教育の校舎で、東西塾を合わせて素読所といいました。
東塾の中に人形で再現した、当時の授業風景がなかなかリアル(笑)

当時の会津藩の上級武士の子弟は10歳になると日新館に入学、15歳まで素読所に属し、論語を中心とした漢文の読み方や書学、礼法、武術を勉強したそうです。




東西塾とも外から眺めるとこんな感じ。長~く建物が続いています。
一度外に出て(雨なのに!(><))、今度は大学の入り口へ。




素読所を終了した者のうち成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められ、そこでも優秀な者には江戸や他藩への遊学が許されたそうです。

大学の建物から渡り廊下を行くと、先ほど戟門から真正面に見えていた大成殿。




大成殿は儒教の祖である孔子を祀った建物です。
扉から外を見ると中庭の向こうに戟門が見える・・・雨やまないな~☆




途中に、会津松平家の略系図が展示されていました。
秩父宮妃勢津子さまや徳川宗家を継がれた恒孝氏の名前があって、へぇ、そうなんだ~☆

弓道場では弓道体験ができます。
雨が降っていたので、この日は通常の半分くらいの長さの弓を使って、室内で体験。




ただの池かと思ってたら、日本で初めて造られたプールといわれている水練場(水練水馬池)。

池の周囲は85間(約153m)もあり、向井流という泳法を学び、甲冑をつけての水練も行われたそうで、水練場を備えていた藩校は日新館のほかには長州藩の明倫館だけなんだとか。

そばにたたずむ像の後ろ姿が、妙に寂しげ☆

さて、日新館を一通り見たらちょうどお昼時になってしまったので、車で待ちくたびれたじいちゃんに一刻も早くご飯を食べさせるべく猪苗代湖畔で昼食をとって、そのまますぐそばにあった野口英世記念館へ。




記念館の敷地内に、野口英世が生まれた家が保存展示されています。

この家は、野口家二代目清太郎の代の文政6年(1823年)に建てられたものです。
英世はここで少年時代を過ごしましたが、その後家屋の痛みがひどく、大正3年(1914年)に隣の家を購入して家族たちは移り住み、この家は小屋代わりに使用していたのだとのこと。




東北地方で、この板敷きの小さな小屋(!)は、住むには寒かっただろうなぁ・・・☆
よく伝記に書かれている、英世が幼少時に手に思いやけどを負ったエピソードは、部屋の端に見える囲炉裏でのことと思われ。




見えづらいですが、この部屋の柱に、英世が上京するときに刻んだという「志を得ざれば再び此地を踏まず」という決意のことばが残っています。

ここまで来たところで、雨もじいちゃんの疲労もMAXになってしまったので、帰宅~!
初会津旅、結構駆け足になってしまって、高齢のじいちゃんにはちょっとハードな旅だったようでしたが、とりあえすポイントは押さえられたかな?(笑)

また、じっくり来てみたいです!

2014年8月25日

涙ナミダの飯盛山・・・ ~会津旅行2日目~

大内宿からほど近い阿賀川沿いにある湯野上温泉の1軒で、の~んびり鋭気を養ったら、2日目はいよいよ会津若松に入ります。

まずは会津旅行1日目のブログ別記事でも書いた、下野街道(会津西街道)に沿って走る国道121号線で、まっすぐ&一目散に鶴ヶ城(会津若松城)に馳せ参じまするぅ~!





というわけで、午前中いっぱいかけてゆっくりじっくり鶴ヶ城散策を楽しんだのですが、城ネタなのでその様子はまた、別ブログ「natchdesの城攻め備忘録」の記事の方で・・・(^^)ノ


さて、鶴ヶ城に夢中になっているうちにすっかりお昼を回ってしまって、実はすっかりおやつ時♪
されば、と鶴ヶ城の北側、会津若松市役所の近くにある「三番山下」というCAFEをnetでみつけて行って見ることに。




「三番山下」は昭和9年(1934年)築の建物の2階にあります。
廃校から譲り受けた机や椅子を再利用した、なんとも不思議な空間のお店です。

コーヒーやスイーツの器に使われているのは会津本郷焼の磁器だそうです。

会津本郷焼というのは、1593年にその当時の領主である蒲生氏郷が薩摩国から瓦工を呼んで、鶴ヶ城の屋根瓦を製造させたのが始まりで、17世紀中ごろに当時の藩主保科正之の求めに応じて瀬戸から陶工が呼ばれて、本格的に焼き物の基礎が築かれたのだそうです。

その土地を訪ねて行ったときに、古くからある建物や、土地ならではの器などに直に触れ合えるのって、うれしいですよね~!

「三番山下」を出てから気がついたんですが、お店が面している通りは「野口英世青春通り」というのだそうです。

そのわけは・・・お店の斜向かいにあるこの建物。




「野口英世青春館」。野口英世がやけどを負った左手の手術を受けて、書生となった会陽医院の跡で、野口英世が使っていた部屋や資料が残されていて、2階が展示室になっているのだそうです。


さて、お腹も落ち着いたことだし、鶴ヶ城に行ったなら次なるスポットは、やっぱり飯盛山でしょう!




というわけで、飯盛山です。


「飯盛山」の名前は、この山がご飯を盛ったような形であることからつけられたと言われています。

この飯盛山は、慶応4年(1868年)の会津戦争の際に、藩士子弟のうち16~17歳の少年たちで構成される白虎隊とよばれる部隊のうちの士中二番隊が、猪苗代湖畔の戸ノ口原における新政府軍との戦いにおいて敗走し撤退する際に、鶴ヶ城周辺の武家屋敷が燃えているのを落城と錯覚して、自刃をした地です。

案内板によると、山の上には自刃した白虎隊十九士のお墓と、戦死した白虎隊三十一士のお墓があって、まーっすぐ登る石段と、平行して登るエスカレーター(スロープ・コンベア)があるとのこと。
ただし、エスカレーターは有料!

なので、たいした距離でも段数でもなさそうだし、じいちゃんばあちゃんはエスカレーターに乗せ、私は日ごろ鍛えた?足で階段直答GO!




飯盛山は標高372m。階段を一気に登って、エスカレーターの終点付近まで行くと、まだ山の中腹ではありますが、遠く町並みが見渡せます。

エスカレーターの降り口からまたさらに石段を上がって、お墓のエリア。
年間200万人ともいわれる観光客が訪れ、絶えることなく香華が手向けられています。




墓域にはムッソリーニが寄贈したという古代ローマ時代の石柱による記念碑があったり、戦前の駐日ドイツ大使館員が個人的に寄贈したという記念碑があったりして、ちょっとびっくり☆

私たちもお線香を手向けて、墓域からさらに奥にある「白虎隊自刃の地」へ。




白虎隊の少年たちはこの場所から鶴ヶ城を眺めた、ということで、その姿を表した像があります。




・・・が、墓域から自刃の地まで行くには、墓地の中のかなり狭くて急な階段を下らなければならないので、足弱な年寄り、特に杖を使って歩いているうちのじいちゃんには全く優しくない道です。。。

墓域のあたりと違って、自刃の地からは会津若松の町が一望の下に見渡せます。

そして、「鶴ヶ城をさがせ」。

ちょっと写真ではぼけぼけになっちゃってわかりづらいんですけど、ちょうどアンテナらしきものに串刺しになって見えるという残念な状況で、鶴ヶ城の天守が見えます(笑)

そういえば、飯盛山に来る前に鶴ヶ城の天守に上った時に、このアンテナ見えたなぁ・・・

再び杖を使ってじいちゃんたちがえっちらおっちらと、あまり優しくない階段を登って墓域に戻り、さらにエスカレーターを降りたところまで石段を下ると・・・下りのエスカレーターがない!

エスカレーターは上りだけ。さざえ堂の方へ行くように順路を作っているせいだと思うけど、その道がまたカーブをともなった結構急な下りの舗装路。

杖をついた年寄りが歩くにはつんのめってしまって危ないなぁ、と思っていたら案の定!
ちょっと目を離したとたんに、前につんのめって坂をごろんと転がるじいちゃん(><)

幸いなことに、ワタシの足にぶつかったのがクッションになったらしくて、ついた手をすりむいたくらいで、それも城攻め常備の救急キットを持っていたので応急手当ができたので、大事無くはすんだんですが・・・

まったくもって年寄りに厳しい観光スポットですよね~!

で、さざえ堂です。




さざえ堂というのは、江戸時代後期の東北~関東地方に見られた特色的な仏堂で、外観がさざえに似ていることからそう呼ばれているそうです。

この飯盛山のさざえ堂は二重螺旋構造になっていて、中に入ると回廊がぐるぐるとらせん状に登り坂状態で上に向っています。

そして、写真右手の窪みは三十三観音などが配置されるようになっていて、堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造になっています。




二重螺旋構造なので、いちばんてっぺんまで登ると、今度は反対側に降りる回廊が続いていて、登る人と降りる人が会わずに(つまり同じところを通らずに)下までぐるぐると降りられるという、なかなかに面白い構造になっています。

ただ、寛政8年(1796年)に建てられてから300年経っている建物で、しかも国の重要文化財でありながら個人所有であるせいか、一足歩くごとに床を踏み抜きそうなギシギシ感がなかなかにスリリング(笑)

さざえ堂からさらに下ると、白虎隊の少年たちが潜ったという戸ノ口堰洞穴に出ます。

戸ノ口堰用水というのは、猪苗代湖北西岸の戸ノ口から会津盆地へ水を引く全長31kmにも及ぶ用水です。

そのうち、飯盛山の下に約150mにわたって洞穴が掘られており、その出口がぽっかりと口をあけていて、戸ノ口原から撤退してきた白虎隊の少年たちは、この洞穴を通って飯盛山まで来たというのです。




案内板に拠れば、そのときに白虎隊がたどった道はこんな感じ。
でも、30kmも歩いてきて、しかも暗い洞穴の中をずぶ濡れになって・・・

それに、この水の流れはこんなにも速くて、歩くのも容易でないというよりも流されちゃうし、とてもとてもこの洞穴を通ったなんて信じられない!(><)

いったいどんな状況、どんな心境であったら流される危険を冒してまでこんな狭い洞穴を150mも潜ろうなんてことになるのか、想像もつきません。





ちなみに、戸ノ口堰用水の近くに、どこまでもさりげな~く目立たな~く、戸ノ口十六橋の石材がおいてありました☆



ここで、さすがに転んだときにひざを打ったらしく、じいちゃんがギブアップ。

早めに宿に入って、会津のお酒を楽しみながら旅の最終日
に備えることといたしました。

ちなみにお酒は名倉山と萬代芳。

会津の地酒は奈良萬と榮川は知ってたんだけど、この2つは初めて。

名倉山は確かにすっきり系で飲みやすい感じ。萬代芳も日本酒らしい日本酒って感じですかね~☆

さっそく名倉山、自宅用に買ってしまいました。
やっぱ、その土地のものを楽しまなきゃ、ですね♪

というわけで、3日目に続く~! (→ 続きはこちら!