2015年10月12日

リベンジ!奥の院 ~秩父札所第32番法性寺~

秩父三十四観音霊場(秩父札所)は、前回の午年総開帳のときに猛ダッシュ駆け足ながら全部お参りをして(→ そのときの記事はこちら)、御朱印もいただいて満願したのに、1ヶ所だけどうにも心残りなお寺がありました。

それが、この札所三十二番の般若山法性寺。
懸崖作りの観音堂にはお参りしたのですが、夕方でタイムアウトだったため、奥の院の仏様たちにはお参りせずに次の札所に行ってしまった・・・(→ 前回法性寺に行ったときの記事はこちら!)

ので、1年経ってしまいましたが、リベンジGO!




久しぶりの法性寺。山門では山号の「般若山」にちなんだ大きな般若面や仁王様が、変わらずに出迎えてくれました。





まずは前回と同様に立派な石垣を横目に石段を上がり、さらにその先の風情のある急な参道を登っていくと・・・




懸崖作りの観音堂が見えてきます。前回ご開帳があったのはこちらの観音様です。
ご開帳は12年に1度なので、また当分は拝観できません☆




前回同様、お堂の裏手に見える基壇部分の岩盤掘りぬき加減には、そのすごさにため息が出るとともに、なんでこんな険しいところに岩盤を掘ってまでお堂を作ったのだろう・・・と不思議な気がします。




さて、観音堂にお参りしたら、いよいよお堂から少し下がったところにある巨岩の割れ目を通って奥の院へ!




この巨岩の割れ目、天然なのかなと思っていたら、中に入ってみると削った跡が。
もしかしたら通りやすいように人の手で広げたのでしょうか?

通り抜けると目の前に、舟の形をした巨岩とその上の石仏が現れます。




奥の院では、「岩船山」の巨岩の上に青銅の岩舟観音様が立ってらっしゃるとのことなので、それをモチーフにしてるのかな?

しばらく行くと、岩にひと足ごとの「足場」が彫られていて、そこに足を置きながら登ると山腹にぽっかり穴が開いて、お堂や石仏さまが祀られています。







お堂の仏様は胎内観音だそうです。
そして、出っ張った岩は「竜虎岩」というのだそうで・・・まぁ言われてみればそうかな?!

さらに進んでいくと、道は「岩道」になっていきます。




「岩がごろごろの道」ではなくて、山全体がひとつの岩でできているのか道自体を岩を削って作っている、文字通りの「岩の道」です。

急な上に苔ですべりやすくて苦労しながらも登り続けると、またも岩窟の中に石仏群が。。。




石仏様たちにお参りしたら、頂上までの最後の難関!
この鎖場を登った上の岩の上に金銅の大日如来様がおわします。




やっとのことで大日如来様にたどり着くと、そこからの眺めはこの絶景!
・・・が、しかし~☆




大日如来様の前は人ひとり座ったらいっぱいいっぱいの狭さ。
なんとか大日如来様に背を向けて座った足の下がこの絶壁!しかも柵などはないので、あぶなくて立って参拝はかなり難しいです☆




そのまま「岩船山の巨岩の上の観音様」はどこだ~?と探してみると・・・
ん?もしかしてあの岩が突き出した絶壁の上に見えるのが・・・?




青銅づくりの「岩船観音」様でした!

本当にここまで来ると、あまりの眺望のよさに、ついつい自分が絶壁のうえにいるということをわすれて「タイタニックごっこ」してしまったりして・・・イカンイカン☆




たっぷりと景色を堪能した後は、また「岩道」をたどって、季節はずれのアジサイがまだ咲いている法性寺の本堂で御朱印をいただきまして、お土産買って帰りましょ♪

ということで秩父の地酒「秩父錦」の蔵元へ。




蔵元のお兄さんにいろいろ教えてもらいながら、あれやこれやと買い込んだら、ついでに美味しいおそばのお店も教えてもらっちゃいました。




秩父といえば「わらじカツ」とか「豚味噌丼」、「みそポテト」なんかが有名ですが、実はおそばも美味しいんですよ!秩父札所めぐりの際にはぜひぜひ、です♪


2015年9月23日

伊達政宗も愛でた白萩 ~あきる野市 大悲願寺~

秋のお彼岸法要で、西多摩の方にある我が家の菩提寺へ。
法要を終えた後、お墓の方に詣でながらふと見ると、お寺の石垣に萩の花がちらほら。




そっか、そろそろ萩の花も見ごろになるかな?

それじゃあせっかくだから、と菩提寺から10分ほどにある、萩の花で有名な大悲願寺へちょっと足を延ばしてみました。

あきる野市にある金色山吉祥院大悲願寺は、寺伝によると創建が鎌倉時代初期の建久2年(1191年)。武蔵国平山(現在の東京都日野市平山)の武将で鎌倉幕府の元老として活躍した 平山季重 が醍醐寺三宝院の僧を招いて開山したとされ、江戸時代も幕府から朱印状を与えられていたという古刹です。




あきる野市の指定有形文化財になっている楼門(仁王門)の前に続く参道には、秋らしく彼岸花が咲いています。

仁王門を潜って境内に入ると、「無畏閣(むいかく)」と呼ばれるお堂があります。





「無畏閣」は江戸時代の寛政6年(1794年)に建立された建物で、軒先に廻らされた極彩色の彫刻が、なんとなく日光東照宮を思わせるような見事さです!

これは、地獄と極楽の様子。




これは閻魔様と地獄の光景です。
あまり上手に撮れてないところが難ですが・・・(^o^;)




この「無畏閣」には、平安末期から鎌倉時代にかけての作といわれる、国指定重要文化財の木造(伝)阿弥陀如来三尊像(阿弥陀如来・千手観世音菩薩・勢至菩薩)が納められているそうです。

ご開帳は年1回(4月)なので、この時期はお姿が拝見できないのが残念です☆

さて、「無畏閣」にお参りしたあと、右手の方に進んでいくと・・・





元禄8年(1695年)建築で東京都有形文化財に指定されている、本堂。
そして、伊達政宗も愛でたといわれる有名な白萩が植えられているのは、この本堂の周辺です。






・・・ちょっと、見ごろをはずしたかな(^o^;)

この大悲願寺には、伊達政宗公とのつながりを示す文書(白萩文書)が残されているとのことで、庭の説明板に次のように示されていました。

「伊達政宗 白萩文書
仙台藩主伊達政宗が大悲願寺に宛てた書簡である。当山十三世住職海誉上人の時代で、たまたま政宗の末弟秀雄(しゅうゆう)が上人の弟子として在山したという。また政宗は川狩りを好んだともいわれる。内容は先日訪問した折、庭の白萩が見事であったが、その白萩を所望したいという趣旨である。年次は「政宗公実記」より元和9年(1623)と推定される。」




説明板の上の方には、「白萩文書」の写真も掲示されています・・・が、よ、読めない☆

これまた文書に書いてあることを説明版から抜粋しますと、「~ 先度は参り、会面を遂げ本望に候。 仍無心の申す事候へども 御庭の白萩一段見事に候き所望致し候。 先日は申し兼ね候て罷過ぎ候、預(使いの者に)候はば忝かるべく候 ~」とあるのだそうです。

現代語に訳すと「~ この度は寺を訪れて、お会いできて満足でした。その上にお願いしたいことがあるのですが、お庭の白萩が一段と見事だったので分けていただけないでしょうか。先日は言い出せなくて帰ってしまいました。使いの者に預けていただけるとありがたいです。 ~」というようなことでしょうか。




これだけの白萩、確かに盛りの時にはさぞや見事なことでしょうね♪
政宗公は弟君に逢いにいらして、白萩がたいそうお気に召したということなんですね☆

しかし~確かに鎌倉時代からの古刹ではあるものの、なぜ伊達政宗公の弟君が、江戸からも遠い西多摩のあきる野市にある大悲願寺に13世住職の弟子として在山していたのかギモンではありますが・・・(^^;)




ちなみに、東京都指定文化財の大悲願寺文書に含まれている過去帳には、15世住職秀雄が没した寛永19年(1642年)7月26日の条に「法印秀雄、俗生は伊達大膳大夫輝宗之二男、陸奥守政宗ノ舎弟也」とあるそうです。

また、伊達政宗公が没した寛永13年(1636年)5月24日の条には「奥州住 伊達陸奥守権中納言従三位藤原政宗 左京大夫輝宗之嫡子 沙門秀雄兄」とあって、この寛永13年当時の住職は秀雄であったようです。

ということで、いきさつはよくわからないのですが、政宗公の弟君がこの大悲願寺にいたことは確かなようです。

そして、そもそも「政宗公の弟」というのは、母親に溺愛されて伊達家を二分しかねない状況から、秀吉の小田原攻めの直前に政宗に惨殺されたという「小次郎君」しかいないはずなので、「秀雄=小次郎」で、実際には小次郎君は殺されずに出家して密かに大悲願寺に匿われていたのではないかという説も・・・!?




「実は小次郎君が生きのびていた」なんてことが史実だとしたら、なんかうれしいな・・・などと歴史のロマンを感じた白萩のお花見でした☆